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沼沢地にて 6/7


「ベンチからの眺めはどうかしら?」と彼女は話を切り出す。ひどく優しい口ぶりだ。それも当然か。彼女はヴィクトーリア、勝利の女神だ。
「悪くない、と思う」と僕は夢もうつつもなしに応答する。「素敵な街だ。ベルリンは。二週間ほどミュンヘンにいたんだけれど、少し違っているね。ベルリンにはどこか、雄弁さと荒々しさの入り交じった、とてつもないエネルギーが流れているように思える」
「そうね、そうかもしれない。確かに、この街は力に満ちているわ。平和はどうかしら?」その顔には女神の微笑みが現れる。「そこは平和?」
「どうだろう」と僕は首を傾げる。平和? 世界を救う片割れ、ラブ・ピースのピース? あるいは僕の煙草の銘柄。いやに唐突だ。「多分そうだよ。今日がとてものどかな一日であるように」
「それなら、よかった」女神は口だけを動かして凜々しく微笑む。「私は長い年月の間ずっと、多くの人を戦いへ導いてきた。平和を旗印に、戦地に赴く人々を鼓舞してきた。だから争いのことはよく知っている。その悲哀も、歓喜も。でも、平和が何か、それはよくわからない。私は勝利を象徴している。戦いを運命づけられた存在なの。そんな彫像がまだここに立っているのなら、きっと世界は平和でない。そういう風に思っていた。けれどあなたはここで平和に過ごしている。それだけで私はとても救われた気持ちになる。仮にその平和が、とても短い、もしかしたら今日一日だけの儚《はかな》いものであったとしても、ね」
 僕は返す言葉を見つけられない。黙り込んだ先で、ここは本当に平和なのだろうかと自分に問いかける。そもそも、平和ってなんなのだろう? 僕は世界一の平和を体現していると言われる国において、かけらも平和な気分じゃなかった。一体、平和とは何だ? そこにどんな価値があるのだろう?
「こういうの、迷惑かしら?」と、女神は野原に咲いた花びらを撫でるみたいに優しく訊ねる。「もしそうなら、特に気に留めないでくれていいわ。時々、話の出来る人がいると、こんな風に答えようのないことを訊いてしまうのよ。でもね、もし時間があるのなら、もう少しだけ話をさせてほしいわ」
 その口ぶりは堂々とした印象とは裏腹に、とても寂しそうだ。よく見ると顔には、長く刻み込まれてきたのであろう深い皺《しわ》が浮かんでいて、諦めと不安の混じった悲しさを醸している。だが、僕が無視して黙り込んだとしても、彼女は今更に失望などしないだろう。女神の寂しげな面持ちには、錆びかけてはいるが未だにとても凛々しい様子が同居している。
「もちろん。時間は有り余ってるよ」と僕は努めて明るく返事をする。「見たところ君は長らく羽を休めていない。だから、僕の時間を使って、君を眠らせてあげたいくらいさ」
 どこかで聞いたことのある、歯、いや体すら浮きような台詞である。あるいは、僕も今では、彼女のように翼が生えていて、空中にいるのかもしれない。そうして自分の背に目を向けるが、そこにあるのは見慣れた外套《がいとう》の擦れた生地と幾らかの毛玉だけだ。
「平和を知れば、人は優しくなれるのね?」
 振り向くと、女神が再び微笑む。
「平和がなにか、僕だってよくわからない。同様に優しさが何であるのかもね。でも、もしかしたら君の言うとおりなのかもしれない。僕は戦争を知らない」
「それこそが」と女神はまた微笑む。やはり口角は上がっていない。「平和よ」
 四頭の馬がいななき、揃って前足を鳴らす。小気味のいい音が広場に響き渡る。
「平和な時代でさえ、君はまだ戦い続けているの?」僕は訊ねる。
「私が戦わなくてはならない相手には、死も含まれているわ。永遠に休む暇はないの」
「そこには意味があるのかな?」と反射的に僕は問いを重ねる。
「それを考えるのはあなたたちの役目でしょ?」と彼女は堂々とした様子で靴を鳴らして、手にしている鉄十字の紋様が彫られた杖をこちらに向ける。「わたしは戦う人に勇気を与え、彼らをどこまでも見守る。それだけよ」
 やっぱり僕は間違いだらけだ。彼女に問いかけても詮ない。争いなくして勝利はなく、勝利そのものである彼女に争いの意味を訊ねようとも、困惑させるだけだ。運命には意味も理由もないのだから。なぜ彼女が生きているのか。僕は結果的に、勝利の女神の存在理由を問いかけてしまった。実存主義的命題。被造物において唯一、僕ら人間は生きる意味を与えられていない。サルトルはそう主張したが、結局のところ、ほとんど誰もがその問いに耐えることができかった。存在は耐えられないほどに軽い。ゆえに実存主義は過去の遺物となった。ひとが何かに属し、出会うものを愛し、彼らを守るために戦うのに、意味も理由もない。戦うことを、生きることを疑えば、人は虚しさの沼地に沈んでしまう。
「信じなさい」女神は微笑む。「あなたの愛を」
「信じているさ」と僕の口からはどこまでもぎこちのない声が出る。「でもね、愛は至上なるもの、みたいに世間が喧々囂々《けんけんごうごう》と謳《うた》っているのが気に食わないんだ。本質的に、愛は素晴らしいものなんだろう。だけれど、そこに付された記号の諸々は、おしなべて不当なように思える。ラブ・アンド・ピース。愛じゃ世界は救えないよ。愛はただ、僕らの心の空っぽな部分を潤してくれるだけだ。愛は自ら愛す者を助く。結局のところ、愛は自分のためにある。情けと同じでね」。気づけば僕の語調は強いものになっている。「だからこそ、僕らは愛されるか否かを問うことなしに、愛さなくちゃならないんだ。押しつけてはいけない。あるいはそれは暴力となんら変わりはしない。世界を変えようとする愛は偽物だ。他人を扇動するための旗印に過ぎない」
「平和のように?」と訊ねる女神は、少女みたいにあどけない表情を浮かべている。
「あるいはそうかもしれない」と僕は、意図せずゴミを放り投げるみたいなぶっきらぼうな物言いをしていて、そこではたと《、、、》、口を開けば開くほど、言葉の全てが彼女の戦い続けた意味を真っ向から否定する方へと流れているのに気づく。沼に吸い込まれそうな男が傍にいる女の手を掴めば、それは結果的に二人ともども沈み込んでしまうことになる。だから僕は興奮を押さえ付けようと、両手を組んで黙り込む。すると女神も口を閉ざして、不安げに青銅の指で青銅の髪を撫でては、青銅の冠に触れる。

「愛と平和は、戦いのため」と長い沈黙のあと、女神がついに口を開く。言葉尻が伸びていて、それは彼女の抱いた逡巡《しゅんじゅん》がどれだけ深いものであるかをよく示している。
「いやな思いをさせて申し訳ない。僕が間違っていたんだ」
「二百年も前のことよ」と女神は僕の言葉を遮り、昔話を始める。「ある日突然、ここにフランスの軍隊がやってきた。そして私はパリに連れていかれた。ナポレオン・ボナパルト、というのがフランス軍を率いていた男の名よ。自分はヨーロッパの救世主だと豪語していたわ。でもドイツの兵隊は——その頃はプロイセンと呼ばれていたのだけれどね——ナポレオンに屈しなかった。彼らは遠くパリまで駆けつけ、私のために命を賭して戦ってくれた。そしてついに私がベルリンに戻るその日、たくさんの、本当にたくさんの人が私を再び迎えようと大きな祝祭を開いた。もちろん、街は今ほどは整ってなかったから、祝祭といっても、今で言えばホリデーの賑わい程度のものよ。でも、あれほど晴れやかで、溢《あふ》れんばかりの喜びに体を震わせている人々の姿は、以来一度も目にしていない。彼らの愛は美しかった。心の底から出てきた、純粋なものだった。私はそして、曇りない愛を与えてくれる彼ら深く愛するようになった。私たちの間を繋いでいた愛も偽物なのかしら?」
「君は正しいことをした。間違っているのは僕さ」と間を置いて僕は呟く。僕は相も変わらず、言うべきで無いことを言い、すべきでないことをしている。
「君が抱いた愛は」と僕は彼女を真っ直ぐ見据える。「本物だよ。純粋だよ。でも、人は争いを運命づけられているんだ。だからいつだって、愛からは不自然さが拭《ぬぐ》えない。愛が水のように緩やかなものであったとして、狂乱を求める本能に逆らえないやつらが、そこにアルコール分を注いでいる。愛というラベルに騙《だま》され、僕らはなにも考えずにそれで喉を潤そうとする。けれど、気分ばかりが高まって、渇きは全くに癒えない。そして、回った酔いが覚めると、頭が痛み、胸の内には虚しさばかりが残っている。そういうものを嫌悪しているだけさ、僕はね。君の知る愛は、そうじゃない。どこまでも清らかで、たおやかなものなんだろう」
 女神は僕に微笑みかけるけれど、やはりどこか悲しげだ。僕のせいだ。
「確かに」と女神は長い空白の後に口を開く。「あなたの言うとおりかもしれない。私もまた酔いしれていたのね。つかの間の勝利、見せかけの栄光に。思えば、それからは何かがおかしかったわ。毒がゆっくり体を犯してゆくみたいに、街は、人々の心は、荒んでいった。彼らの上げる軋《きし》みはどこまでも痛ましく、嘆かわしいものだった。そうよ、気づけば私たちのうちには、壁が生まれていたの」
「ベルリンの壁」僕はぼそりと呟く。
「いいえ。そのもっと昔から、この街にはずっと見えない壁がある。普墺戦争の頃からかしら。それから、普仏戦争、そして二つの大戦が起こった。もちろん私は、いつだって力の限りを傾けて人々を勝利へ導こうと努力していた。でも本当は感じていたのよ。もう、人々は、私の愛した彼らでなくなってしまったんだ、って」
 そこで女神は話を止める。
「壁」と僕は合間を埋めるように口を開く。「存在と存在の合間に聳《そび》え立つもの」
「どうしてなのかしら」と女神は呟く。そして再び、自らに言い聞かせるように、どうしてなのかしらと繰り返す。
 僕は彼女の言葉を待つ。彼女が時折首を振ると、月桂樹の香りが仄《ほの》かに漂ってくる。
「たぶん」としばらくして女神は口を開く。「人の愛は純粋ではあったとしても、完璧ではなかったのね。いいえ、どうでしょう。私のせいなのかしらね。愛し過ぎたがゆえに、私は彼らを歪めてしまったのかしら。みな、いつからか愛する人を守るためだけでなく、威信とか民族、進歩とか発展という、目には見えないものを戦いの拠り所とするようになったわ。私はそんなものは必要ないと思っていた。自身が本当に愛する人たちを守る、それだけで十分なはずよ。だからもう、本当は、彼らが起こす争いに粒ほどの価値も感じることができなかったわ。自らの生を充実させる、ただそれだけが目的なんて、欲深く獰猛《どうもう》な、獣未満の存在よ。もう、人は純粋ではなかった。美しくもない。私を崇めに来るのは、争いに明け暮れる業《ごう》の深い醜いものばかり。確かに、彼らの力こそが世界を良い方向に変化させたのでしょう。自由、希望、愛。それらはより広範囲において、より大多数が享受できているもの」
 そこで突然、彼女は声を落として囁《ささや》くほどの口ぶりになる。小さな声を聞き取るために、僕は少し体を乗り出す。
「でも、みなが広場から去ってしまった夜更け、閑散とした町並みを彷徨うみすぼらしい人々を眺めているとね、ふと、私が導いた戦いは、搾取でしかなかった、そう思うのよ。だから私は天に祈りを捧げる。この世界で今、誰もが死の恐怖から免れていて、平和に暮らすことができますように、と。ああ、でも、そんなこと、本当は望んではならないの。私は勝利そのもの。平和を望めば、それは自殺を図るに等しい。勝利が求められればこそ、私は存在していられる。でももう、戦うことに疑義を挟み出してしまった。私が消えれば争いはなくなるのかもしれないと考えずにはいられない。ねえ、あなたたちは平和な世界でどんな愛を抱いているの? 争いを生み出すことのない正しい愛を、人は見つけられたの?」
 僕は俯いて考える。言葉になるはずの何かを探ろうとする。ちょうど、素潜りで塩水に目を痛めながら海中に漂う優雅な浮き草を掴もうとするみたいに。でも僕は潜水は苦手で、言うまでもなくエラがない。空気が足りなくなれば、諦めて浮上するしかない。僕は彼女に、なんて語りかけるべきなんだろう?
 僕は彼女を見据え、わからないと告げる。でも、もう女神は静止している。真っ直ぐ空を仰ぎ、しっかりと杖を天高く掲げるままの姿勢で固まっている。

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