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〈文芸批評〉詩の言葉の意味の重層性ー「いわまのきわ」をめぐってー

 詩の言葉の重層性と言えば、平安和歌の掛詞はもちろんのこと、『常陸国風土記』に載る諺「握り飯筑波」の古にもさかのぼる。これらの場合、同音の異語が利用される。「握り飯筑波」の例で言えば、地名としての「筑波」の「つく」と、飯を握るときに飯粒が「手に着く」の「つく」が同音であることを利用した表現である。紀貫之が仮名で書く日記というスタイルを打ち立てたのも、一つには言葉の意味の重層性を表現に取り入れるための方法としてであったであろう。
 さて、この伝統的な表現技法は、現代詩の中でも効果的に使われていると言えるだろうか。本論の副題にある「いわまのきわ」の詩句は暁方ミセイの「雲摺師」(『青草と光線』七月堂2023.3.25)の一行「いわまのきわの蜂の頷き」による。この「いわまのきわ」は「いまわのきわ」を連想させる。実際、『現代詩手帖』令和5年12号はこの「雲摺師」を「2023代表詩選」に採録しているが、同箇所を「いまわのきわの蜂の頷き」としている。私はここに異伝の発生を見る。万葉集ならば、「或本に曰く」とか「一本に曰く」として伝えられることになる事例である。とはいえ、本論の興味はこの点にはない。
 言いたいのは、おそらく誤植と思われるこの事例(推敲の結果ではあるまい)が、私に気づかせてくれたことがあるということだ。「いわまのきわ」は「岩間の際」であろう。前の行は「遅れざきのラベンダー」であり、それと「いわまのきわの蜂の頷き」が並列されている。遅れ咲きのラベンダーの花の咲く横に岩場があり、岩と岩との間に蜂が止まっていて、首を上下させているイメージが浮かぶ。一方で、「いわまのきわ」は「いまわのきわ」を連想させるので、この蜂は今にもその生涯を終えようとしている蜂にも見えてくる。ひらがなで「いわまのきわ」と表記することによって、蜂のイメージは重層化されているのだ。これは同音の語に二重の意味があるのではない。「いわま」というひらがなで表記された語が「いまわ」を連想させ、そこに書かれていない語を彷彿させるのである。「いまわのきわ」は成句として通用している表現として、私たちの脳裏にすでに定着している。だから「いわまのきわ」から「いまわのきわ」への連想が働く。その逆は起こらない。どこにも書かれていない「いまわのきわ」という言葉が、錯覚によって呼び起こされるのである。また、漢字で「岩間」と書いたのでは「今は」を連想させることはできない。作者はあえてひらがなを選択していると推察できる。
 「雲摺師」の中には「連れ去ってこの日を閉じて」という一行もある。現代詩手帖に採録された「雲摺師」にも異同はないが、私たちを錯覚させ、「この目を閉じて」という連想を呼び起こしかねない表現ではある。「この目を閉じて」という表現と比べれば、「この日を閉じて」は違和感のある表現だ。目は閉じるものだが、通常は日は閉じるものではないからだ。「この日を閉じて」という表現は「この目を閉じて」というありがちな表現を連想させるが、その逆は起こらないであろう。なおかつここでは「日」という漢字表記であることが重要な意味を持つ。「日」と「目」は形が似ているけれど、「ひ」と「め」は似ていない。「このひをとじて」と書かれていたら、「このめをとじて」への連想は起こらない。錯覚が起こって「この目を閉じて」という表現を思い浮かべてしまった読み手は、この日が閉じられ、どこか別の場所にしまわれる「わたし」が静かに目を閉じる様子をイメージすることになる。ここにも意味の重層化が生じている。
 さて、「雲摺師」の中の二箇所の表現について言葉の意味の重層性の存在を確認してきた。ただし、これらには古代和歌に見られる掛詞とは大きく異なる性質を、二点指摘できる。古代和歌に見られる言葉の意味の重層性は同音の異語によるものであった。それに対して「雲摺師」の中の二例は表現されない言葉を錯覚によって連想させることで重層化がなされているのである。書かれていない言葉を錯覚によって連想させるのである。そして、そのことを可能にしているのは文字である。万葉集の時代にはもうすでに文字によって書く歌の時代に入っていた。しかし「握り飯筑波」のような諺の場合は、文字の影響は考えにくいのではなかろうか。そもそも、言葉の基盤が音声であることは、どの時代であっても免れまい。古い枕詞に見られるような意味の重層性は音声の言語として成立している。一方、「雲摺師」の場合は文字に書かれた言語だからこそ成立する意味の重層性である。二つの相違点を「雲摺師」の側から整理し直す。①書かれていない語句を連想させることで意味の重層化をなしている。②それを可能にしているのは文字である。
 この事象が「雲摺師」に限定的なことなのかは知らない。ただ、私たちの文学が、古代和歌の時代と比べて大きく文字に依拠するものになっているという、極めて当たり前のことを改めて実感できたことは確かである。

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