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明暦の大火サイドストーリー~左様せい様と天守閣(2)

千鳥ヶ淵の桜が満開です🌸

さて少し間が空きましたが、こちら江戸城にまつわるお話の続きを少し…。

満場平服

3代将軍徳川家光公が48歳で急死したため、家綱公は11歳の若さで将軍を継承しました。江戸幕府は家光、家綱と2代続けて世子(跡継ぎ)のない将軍が就任することとなり、後継問題を含め幕政の大きな転換期となりました。

そんな「左様せい様」こと徳川家綱公の続きを書きたいと思います。明暦の大火の時は家綱公の治世でした。
以前こんな記事はこちらです。

家光公死去の翌日、大老酒井忠勝は幕臣・諸大名を集めて、
昨日上様(家光)が他界されたが、もし天下を望む者あらばこの機会にいかがか?」と煽るように言い放ちました。

続いて徳川一門の保科正之(家光の弟)と松平光通みつみち(家光の再従弟はとこ)が「もしもそのようなことがあれば、我らが踏み潰して徳川代替わりのご祝儀とする!」と諸将を一喝しました。

諸将は満場平伏し、幼い家綱公を新将軍に奉じました。

このように家光公の急死に際し、ここまで築きあげてきた幕藩体制を堅持しようと徳川親藩、譜代が一致団結した体になりました。

この時は前出の叔父、大政参与(最高顧問)保科正之や、「知恵伊豆」こと老中松平信綱など優秀で、言の強い人物が幕閣としてまだ残っていましたので、「左様せい」と政務を委任することができたのだと思います。こうして将軍は権威の象徴として君臨し、政務は幕閣が合議でおこなう文治政治がはじまりました。

家綱公は在位中、「自分は良き大人に恵まれた。」と感じていたようです。「吾、幼年なりといえども、先業を承け継ぎ、大位に居れり。」と言行録に記されており、優れた家光遺臣がいたからこそ幼くして将軍職を継承できたのだと話しています。

ちなみに「左様せい様」は、治世後半、下馬将軍こと大老酒井忠清の専制を許した時代に渾名されたもので、治世前半の「左様せい」とは少し意味が違うかもしれませんね(*‘ω‘ *)

少年公方、天守閣に登る

幕臣木村高敦たかあつ武野燭談ぶやしょくだんによると、家綱公が将軍就任から間もないころ、かの江戸城天守閣へ登った際に近習きんじゅから遠眼鏡を勧められました。前回の記事でも書きましたが、天守閣の高さはおよそ60m。さぞや見晴らしも良かったことでしょう。

すると家綱公は「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世の中の人は嫌な思いをするに違いない。」と話し、遠眼鏡を手に取らなかったといわれております。

話の真偽はともかく、良いお話だと思います(*´ω`)
家綱公は幼いころから身体が弱かったせいもあり、そういった慮る気持ちを持ち合わせていたのでしょうか。

君主のススメ「貞観政要」を愛読していたともいわれ、民を統べる将軍の姿とはどうあるべきか、ということも若いころから考えられていたのかもしれませんね。

天守閣、再建すべきか否か

さて、1657年に発生した明暦の大火により、天下の江戸城は天守閣はじめ、城内のほぼ全域を消失してしまいました。

当時宿老の酒井忠勝・土井利勝などは政務の一線を退いており、前出の保科正之・松平信綱が中心となり、鎮火後の江戸の復興と江戸城の再建をどうするかが話し合われました。まさに「復興担当相」です。

この松平信綱、明暦の大火で江戸城に延焼が及んだおり、大奥の畳を一部裏返しにて道標のようにし、それを目印に避難するよう女中らに伝えたとされています。今でいう非常(避難)経路の確保ですね(*‘∀‘)
信綱は川越大火後の復興にも携わっており、復興と防災にはうってつけの人物でした。

将軍の権威を重んじる幹部たちは「天守閣再建すべし。」と鼻息も荒かったのですが、松平信綱は、「まず被災民救済と江戸の町の復興が優先でしょう。」と、断固反対します。
気持ちの収まらない幹部は、保科正之にも意見を求めました。

保科正之は「信綱殿に同意いたす。」とし、権威派の気勢を制しました。保科正之は庶子ではありますが前将軍家光公の弟君です。そう言われたら矛を収めるしかありません。

こうして江戸の町の復興は進められ、明暦の大火から得られた教訓をもとに、防災を念頭においた町づくりがおこなわれ、江戸城天守閣はついに再建することはありませんでした。すでに、幕府の財政破綻も始まっておりましたので‥。

この一連の復興閣議における家綱公の姿勢は明らかになっていませんが、少年のころ天守閣に登ったエピソードをみるに、もしかしたら「左様せい。もう必要ない」と言ったのかもしれません。

江戸城天守台跡

おわりに

復興閣議の際、松平信綱は「再建するならば将軍様の御居所、本丸が先です。この際、江戸城は将軍様のお住まいとし、他家の方々は江戸城外に屋敷を構えていただくのはいかがでしょう?」と言いました。これはまさに、一門である御三家のことにほかなりません。

これより先、一門たる親藩と、幕僚たる譜代の、まさに「住みわけ」がなされる時代となってくるところも、明暦の大火が生んだ新しい潮流なのかもしれません。

ちなみに千代田区紀尾井町は御三家伊藩・張藩と彦根伊藩が明暦の大火の後に江戸城外に建てた、それぞれの武家屋敷の頭文字をとった地名です(明治以降)。

「左様せい様」こと家綱公の治世は30年ほど続き、その間明暦の大火という歴史的な大災害や、いくつかの歴史イベントがありました。

30年とは長い印象ですが、将軍就任時の若さを考えるとどうでしょうか?身体も弱く、病気がちだったため世子に恵まれず、危篤のさなか末弟綱吉公に将軍を譲ると告げ、この世を去ります。享年40歳でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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