【滝口寺伝承(2)火宅の女④】

楠木河内

昨晩まではから騒ぎ、明けては僉議(せんぎ)。御所はそぞろわしいことこの上なし。復讐の鬼と化した尊氏の兵力は30万とも50万とも噂され、臆面もなく慌てふためく貴族と、平静を装う武家との間に大きな隔たりがありました。

徒(いたずら)に時が過ぎていく中で、ある公卿は「孔子(くじ)で吉凶を占ってはどうか?」と言い出す始末。連座する義貞と楠木河内は辟易して目配せします。尊氏は鬼か魔か。西国中の兵を隈無く集めてもせいぜい10万。この短期間にどう見積もれば50万もの軍団になるのか、憶測とは恐ろしものであります。

眼光鋭く、顎髭を撫でながら頸を傾げるこの楠木河内守正成、帝をして「我が韓信」と云わしめる人物。出自不明ながら六韜三略に通じ、此度の倒幕の戦功により官軍の一翼を担うこととなった将です。

両雄相通ず。帝の御旗のもとに参集した武家はあまたあれど、楠木河内ほど忠義厚く、軍略に長けた人物はいないであろうと、義貞は一目擱いておりました。

「新田左中将を西征大将に任ず。2万の兵を率い、取り急ぎ播磨にて東上する足利軍を誅滅せよ。」公卿坊門清忠より、ようやくの下知を受けます。

「寡兵であろう⁉して、その後の備えは?」楠木河内が問いただすと、「足利に大義なし。都より西は吉方。帝の御旗を立てれば雷鳴とともに天誅は下り、皆逃げ出すであろう。」と清忠卿は答えます。

(……!!なんと愚かな……‼?。)両将は心の中で嘆きます。これら公卿のために、どれほどいくさ場に我ら一族郎党の血が流れたであろう……。列席武家の切歯扼腕はいかばかりか。

保身、楽観、虚無、懊悩……それぞれ想いを抱き、諸侯は屋敷に散りはじめ、御所を斜陽が包みます。

「新田殿!」

とぼとぼと御所を出ようとする義貞を楠木河内が呼び止めます。「此度の戦、あまりにも寡戦。行くも地獄、戻るも地獄ですぞ。新田殿らが祝宴に浮かれている間にも、尊氏は刀を砥いでおりましたな。」

(まさか昨日のこと、河内殿も聞き及んで嫌味を言っているのか⁉)義貞は痛いところを突かれたと頭を掻きました。

「た……尊氏は思いのほか早かったですなぁ。河内殿、面目ないが、こちらとて兜の紐を緩めていたわけではござらん。武士(もののふ)のつとめは果たしまするぞ。」ばつが悪そうに義貞は言いました。

「いやいや、責めるつもりは毛頭ござらん。ただ、先の戦で新田殿は尊氏から相当の恨みをかっております。戦は謀、術、数で決まるもの。ましてや尊氏は大徳。捲土重来を期す足利軍の士気は旺盛にござる。片や我らが官軍は星廻りや孔子で先々を決め、軍議すらまともにできぬ始末。どちらに勝機がありましょうや。我ら悪党は所詮捨駒ですが、源氏のあなたは我らの希望。武運長久ならんことを。くれぐれも犬死なさるな。」寸分も表情を変えませんでしたが、楠木河内の目は真実を語っています。

「河内殿、その気遣い義貞の心にしみました。必ず尊氏を打ち破りますゆえ、帝をお守りください。それから…その、河内殿を男と見込んで折り入ってお願い申す。もし都にふたたび戦火が及びますれば、高倉の屋敷の者を比叡山に逃してやってはくれないでしょうか。」悲愴な義貞の目も、また真実。

「分かり申した。男の約束でござる。」楠木河内は頷きました。

義貞の表情は少し晴れました。

月影

辻を曲がると桜吹雪にまじり、寂しげな琴の音が聴こえてきました。おそらく麗子のでありましょう。暁の僥倖、夜半の夢。

「やぁ、麗子。」我が妻(め)。気恥ずかしさはあったが、想い人を呼ぶうれしさはこの上ありません。麗子は安堵の表情を浮かべ、義貞を迎え入れました。

『弾く琴の 音のうちつけに月影を』義貞が麗子の顔を見やり、こう言うと、

『春の雪かとおどろかれつつ』……でしょうか?」麗子がくすっと微笑みながら返します。

「琴を……弾いていたのですね。」義貞は腰を据え、麗子と相対します。

「ええ。屋敷の掃除を終えたものですので、こちらにあったものを少し触らせていただきました。」

「いやいや、あなたが掃除など。家の者に任せておけば良かったものを。」義貞は畏まって掌を麗子に向けました。

「いえ……。私は普通の暮らしがしたいのです。これも武門の女の普通のつとめと心得ております。今日は何をしようか考えるだけでも幸せでしたのよ。」

麗子にとって手に入れた普通の暮らしとは、幸せとはなんであろうか。明日死地に赴く義貞の胸は締め付けられます。

「明朝……出立いたします。」義貞は麗子に告げました。

「そうですか……やはり戦に……。」麗子はうつむきます。

「今生の別れでもあるまいに、そう落胆なされるな。必ず、必ず戻りますぞ。」

義貞は麗子の手を取ります。夫婦(めおと)のときはわずかに二日。

月の光。落ちる涙は桜花。なかなか眠れぬまま、ふたりの夜は更けていきます。

義貞、立つ

官軍総大将、新田左近衛中将義貞。

鬼丸、鬼切の双刀を携え、凛とした、なんと見事な騎馬武者姿でありましょう。朝靄のなか、辻には新田党を見送る群衆が詰めかけます。

都が再び戦火に陥るか否か、義貞の双刀に掛かっています。

「麗子、しばしおさらば。息災でな。」義貞が一瞥して馬を返すと、ふわっと桜の花びらが舞い上がります。

いくさ場に赴く男たちを見えなくなるまで見送る女の後ろ姿。

気付けば都の桜はほとんど散っていました。

火宅の人(ひと)⑤につづく

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