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働いていないときも自分は続く:柔ちゃん物語

 本のビルだらけで、肘を置くスペースもない書き物机を片付けていた。

窓に面した私の机からは、物干しに引っ掛けた玉ねぎのネットと、真向かいに時々人影が映るレースのカーテンが見える。向かいの家がなければどんなに景色が良かったかと、窓を見るたびに思う。

欠けた空を眺めながら、物思いにふける。椅子に腰掛けたら、まず初めにそういうことをする。

向かいの家は気に入らないが、瓦屋根なのは、なかなかセンスがある。晴れた日は、陽が反射して、川面を見ている気分になるし、雨の日は、音がいい。曇りの日は柔らかな光沢を放つから、一番好きだ。ときおり陽がのぞくと、何か神々しいものでも見たみたいに、心が安らぐ。

何かをしなくてはいけない。という気持ちがあったら、こんな瓦を眺めて悠長なことなど、言っていられないだろう。

働かなくなってから、随分とたつ。

コロナがあけて、人々の動きは活発になった。みんな、何か変わっただろうか。

働き方が全く変わってしまった人もいるだろう。私のように仕事をなくした人もいるかもしれない。世間は一見、元の生活に戻ったかのような風だけど、未だ大切な人と一緒にいられないという人もいるだろう。

生活や環境、人間関係、コミュニケーション…ありとあらゆる時間が地球規模で見直されている。コロナの余波はまだ鎮まりそうにない。

私はこの一連のことが始まる前も後も、あまり生活は変わっていない。ただ、心境は随分と変わった。

以前は、仕事関連で思うように前に進めず、焦り、罪悪感、情けなさでいっぱいだった。

働くことは人間を成長させる。私はそう信じて仕事をしてきた。どんな仕事であっても学ぶことがある。乗り越えなくてはならない自分がいる。一つ一つ乗り越えたところで、新たな自分と出会う。

そういう経験が、人間の成長には欠かせない。だから、休むことが、許せなかった。社会で役割がなければ、死んでいるも同然で、むしろ何かを消費する分、マイナスだろうくらいに思っていた。

かつての自分にしてみれば、実に耐えがたいポジションにいる。働かなくなったら、自分は終わりだとも思ってた程だ。だけど、それが今は現実なのだ。

しばらく現実を観察するうちに、働かない時間も、人生にとって必要不可欠なのでは?と思うようになった。今この場に生きていることを、まず感じよう、と思い切ることにした。

少量の貯金を切り崩しての生活だが、だからこそのありがたみを、着るもの、食事、住む場所、家族友人に感じようになった。

その現実は以外にも、働いている時とはベクトルは別だが、成長や学びがあることに気づき始めた。社会の構成員としての緊張感はあまりないが、人間としていかに生きるか、といった緊張感がある。

24時間の使い道全ての決定権が、託されている。

それらを活かすも殺すも自分次第。その過程や結果を誰かに指図、評価はされない。けれど大きな責任を背負っている。
私はこの責任を

自分という一人の人間を育てること

と考えている。

この責任は、金でどうにかできる代物でもない。

人生は何にも代えることはできない。そういう意味では、成功もなければ、失敗もないのかもしれない。

社会的に見たときに、他者との差異によっての評価はある。けれど、人間そのものを何かと比較することはできない。条件が全く違うもの同士を比べることはナンセンスだからだ。

それよりも、どんな選択をし、自分をどんな人間に育てあげるのか。働くにせよ、生活するにせよ、人と会ったり、歩く姿勢、食べるとき、何をするにしても、自分を育てることは、いついかなることからでもできる。

それは、たぶん、この世に生まれてから死ぬまで、一秒の途切れもなく行われることだと思う。それを意識するかしないかで、人としては随分と違ってくるようにも思う。

働くことばかりを考えていたときは、会社にいる時だけ、自分(の社会的な体裁)を意識していた。家に帰ったら、汚いゾンビみたいでも、特に気にならなかった。

けれど、どんな場面の自分であれ、自分は一人の人間として続いている。生きる上での責任を背負っている。

ありとあらゆる時間の集大成が自分なのだとしたら、今このときにも成長できることがあるということなのだと思う。

と、瓦を見てて、なぜかそう思いました。

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