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好きなことに没頭することは、心の故郷をもつこと: 柔ちゃん物語

 このnoteは、柔道一直線だった私が、社会に出て戸惑い、衝撃をうけながら、柔道から学んだ生き方を通じて働くを見つめ直す、人生をアップデートしていくものがたりです

 道場に入ると、血と汗の染みた畳から、ぬぅっとした熱気とも臭気ともいえないものに、姿勢を正される。

正面には柔道創始者、嘉納治五郎師範の額縁があって、時間になると、その下に先生が座り、生徒と向かい合わせに正座をして整列する。

そして、互いに目を瞑り、黙想をする。

道場に一時の静寂と平穏な時間が流れる。

それが終わると、額に入った嘉納師範に礼をし、互いに礼をして先生の一言がおわると、瞬く間に道場は鍛錬の場と化す。

夏は蒸し風呂、冬は氷のような畳の上で、人を投げ、身体を打ちつけ、技をみがき、礼をして終わる。ただひたすらそれを繰り返す。

私は、小学生から十年ほど、ほぼ毎日のようにそんな稽古を続けていました。そこでは、ただ勝つのではなく、柔道を楽しむこと、相手を思いやり、礼や姿勢を大切にすることを恩師から学びました。怪我で離れてからそろそろ七年。かつての十年の月日は長く、あっという間でしたが、時々、実家に帰るような感覚で、記憶の中に訪ね、柔道を楽しんだりしています。

どうも。

私のnoteに遊びに来てくださった皆さま、今日もありがとうございます。

今回は、没頭が与えてくれたものや、社会に出て働く上では厄介にもなり得る、ということについて書きました。少しでも何かの役に立てたらいいなって思います。

一つ補足を加えさせてください。
私がここで使う“没頭”という言葉は“情熱をもって没頭する”という意味で読んでいただきたいのです。そんな補足いらんでしょ、とも思われるかもしれませんが、後に書く、仕事上での話ではこの意味がちょっと重要になってくるのです。お願いしますね。

ところで

皆さまは何かに没頭する時間をお持ちですか?もしくは何かに没頭してたことはありますか?

これを聞いたからといって、私は何かそういう系の専門家でもないので、特別何をいえるわけでもないですが、これだけは言えると思うのです。

没頭してるときは、世界が没頭してることだけになる。

つまり、私の場合、柔道に没頭してたから、柔道が私にとっての世界だったんです。

ある意味、私だけの国があるというイメージです。その国で、柔道というルールに基づいて日々の生活を送ります。

私は、どうやって生きるか、どういう人間になるかは柔道から学び、道場の師範や知り合った友人たちと関係する時間で構築されていきます、もちろん私自身の性質も協力してですが。

訳がわからない…ですか?

つまりこうです。私は、高校二年生まで、この世は柔道しかないって本気で思ってました。地図上の国をまたいでも、柔道のことしか見えてませんでした。

そういった何かに夢中になる経験、ありません?笑

今思えば、マジでヤベー奴なのですが、そう思えてた自分が、逆に、とっても幸せだったなと。

社会に出てみて、ひしひしと実感したわけです。

高校三年生になって、進路を考えるとき、もちろん大学も柔道推薦で行くつもりでした。成績も悪くない程度にとってましたし。

けれど、はたと、

柔道だけで人生終わっていいのか?
もっと広い視野で世界を見てみてもいいんじゃないか?

そんな欲とも危機感とも言える問いがどこからともなく降ってきました。

その後、かつての没頭は火に水をかけた如く鎮まって、代わりにそれまで火の壁で見えなかった国が海の向こうにある、そんな冒険心に溢れて、柔道から離れていきました。

ところが、現実は甘くなかった。
(初回でも言ってましたが、私はどんだけ世の中甘く見てんだって感じですね、なんでもできるって思っちゃうんです、実際にやるまでは)

それから普通の大学に行き、案の定完全なモラトリアム突入です。

10年の没頭生活からのリタイアは、私にとってある意味、生きがいを自ら断ち切ったようなもので、燃え尽き症候群みたくもあったのです。

4年半、柔道に変わる没頭を探し続けました。 

少しでも興味があれば、何にでも手をつけ、一度は熱中するのですが、しばらくすると、冷める、そんなことの繰り返し。かといって、また柔道をはじめる気はありませんでした。いつかまたやってもいいが今ではない、と。

もういっそのこと働くことに没頭したらどうかと、就職をして、ようやく仕事で楽しいと思える自分を思い出し始めました。

ところがです。

私は没頭を長く追い求めるあまり、それがどういうことかを忘れてしまっていました。

いつの間にか

“時間を忘れるほど、自分を尽くすこと”

に、すり変わってしまっていたのです。 

私はそれを没頭してると思い続けました。

更に、一つのことに熱中することは、時に、仕事効率を落としたり、優先的な仕事を無視する要因として、よく注意されました。自分では会社のために没頭してるつもりでも、会社はそれを求めていませんでした。

私はどうしたいのか、わからなくなっていきました。それまで自分を構築してきたものが音を立てて崩れていきました。

確かに稽古のモチベーションは自分を育ててくれた先生に恩返しをしたい、と言うものが少なからずありました。けれど、それ以上に、私にとって柔道は、大切な生活の一部として、情熱をもって取り組んでいたことでした。

だから、どんなにアウェーで苦しい状況に陥っても、乗り越えてこれたのです。歩けないような怪我をしていても、身体を動かすことばかり考えていました。試練をクリアするたびに、身体だけでなく、心も強くなっていくことを実感していたからです。

私はそれまで、柔道が好きとは言いませんでした。柔道をすることが当たり前すぎて、好きという範疇になかったからです。でも、好きでなければ、こんな辛い競技続けられません笑
私はそのことに気づくのに、4年半もかけてしまいました。

好きなことだったから没頭できた。

自分が心の底から、やりたいと思えること、その世界に住み着いても構わない、と思えるものでなければ、没頭はできません

無理して自分の生きがいを追い求めることほどつらいものはありません。

私は柔道という没頭経験があったから、モラトリアムで自分を見失っても、自分は何を大切にし、どんなことに熱中できたか、恩師から何を学び、どんなことを好んでしてきたか、自分の源点とも言える場所に立ち戻って、思い出すことができました。

そういう心の故郷のようなものに、没頭させてくれるものはなっていきます。

没頭するものがない人はだめ、というのではないです。私自身、柔道と同等か超えるくらいのものにはまだ出会えていません。

じゃあ、どうするかと言ったら

探すのではなく、自分が好きと思うことをやり続けること

だと思うのです。

他を気にせず、そこにのめり込んでいたら、しめたものです。他人がどう言おうと、自分の世界にいるときくらいは、羽を伸ばし、好きな言葉をつかって、自由に身体を使い、自分だけの世界という時間を過ごせたら、素敵なことだと思いませんか?

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