”楽しむ”ということと、辛さ
ふと思う、というか気づくというか
楽しむって難しい
楽しむことは簡単だと、自分次第であると、かつて大学二年生ぐらいの自分はそう気づいた
自分ごととして、積極的に何かに関われば、楽しい気持ちはふと生まれているものだと。
そう、決して受け身ではいけなくて、楽しむ人は皆須く積極的である。
それは楽ではなく、苦労もすることなのだけれど、代わりに楽しいと思えるのだ、そう強く学んだ。自分の周りにいる友達知人も、甲本ヒロトも同じことを言っていた。彼ら彼女らの影響も、私の学びの一助となっているのは言うまでもない。
そして、今改めて楽しむということを再考する。
これからは社会に出ることになる。
この先でまた、楽しいと思える瞬間は来るのだろうか。
今は正直、楽しくもあるし辛くもあるという状況だ。
まぁ楽ではない。だが、死ぬほど辛いという訳でもない。地獄の地獄というわけではないが、でも辛さはすごーくある。だって何社からも落とされるし、将来への不安もあるし、やりたいことはあんまりできている実感はないし、周りとうまくいかない時もあるし、嫉妬に駆られる時もあるし、自分が情けなく感じることがたくさんあるからだ。だから、それらが総じて辛いという感情になっている。
でも、うまく行く時もあるし、悩んだら相談に乗ってくれる人たちが有難いことにいるし、胸を張ってトライアンドエラーができる猶予がまだあるということは幸せというものだろう。自分で時間の使い方を決められるのだ。うん、それは間違いないと言える。
けどねぇ。一つ書き記しておきたい辛さとしては、自分を情けなく思う瞬間についてだよね。これは、自分と同じような環境にいた奴なのにも関わらず、自分よりもすごくなっている感じを目撃したときに生じるものだ。つまり他人との比較。自分だってやりたいことやなっていたい理想像みたいなものはあって、だがしかし自分の能力や環境、運なども絡んでそれができないというジレンマでグルグルしている。それに対し、彼らも裏では努力をしているのだろうが、上手くいっている結果だけがこの目に飛び込んでくると、もう死にたくなるのだ。
それがいい奴なら、まだこっちもそれなりの感情を対処できる。でも、嫌な奴もいるのが大変なポイントだ。そういう奴は煽ってきたりすらする。
自分に余裕があれば煽り返したり、そういったことができる。自分の中に有能感や自信があれば、そんなの屁の河童だろう。そういう自分の外の脅威とも戦っていけるわけだが、なにぶん今の自分には余裕というものがない。一切ないわけだ。なんとか余裕を取り繕っている。必死なのだ。
そんなわけで、そういうやつをみると、俺は酷く自己嫌悪に陥る。情けなくなってしまう。それからは逃れられない。だからできることとしては、あんまり見ないようにするとか、せいぜいそれぐらいだ。苦し紛れの方法だね。今の俺には解決できないのが、それも悔しさになる。
それが、今の大きな辛さかな。
日本人特有の他所様がよく見える症候群というか、他者からの目を気にしすぎ的な、そういう辛さに似通ったものがある。自意識の中での辛さだ。
でも想像力を働かせてみると、そういう奴らも必死なのかもしれないな。
必死に頑張ったからこそ、今の状況を手にしているのかもしれない。自分の信じた方向に向かって、ときには誰かを傷つけながらも頑張ることは勇気がいる。俺には、誰かを傷つけてまで自分を成長させたいとは思えなかった。だって、そんなことをして手に入れた景色は好きになれないと思ったからだ。でもそんなことを言う奴俺みたいな奴こそが、こういうしんどさを抱えるし、ぐちぐち言ってしまうのかもしれない。本当は羨ましいのかもしれない。だから自分が情けないのかもしれない。
自分は怖いのだ。誰かの反対を押し切ってまで自分のセンスを信じようとは思えない。その結果失敗するのが、怖いのかな。でも、そんな生き方をしていると、いつかどうしようもなくなる時がくるのかね。ずっと自分を押し殺して生きていくことになってしまう。それがいつか爆発してしまうのかもしれない。
こんな姿勢じゃ、いけないとズーーーーーと思っている。でもやめられないんだ。
でも、、、失敗することの勇気をもたない限りは、いつまでたっても、何が起こっても、俺は前には進めない。進んでいるように思えても、自分の中では何も変わっていない。その、自分が作った恐怖という名の檻のなかから一歩外にでないと、いけないんだ。
俺のその臆病な姿勢が、保守的な姿勢こそが一番の失敗。
それこそが、俺の大学生時代の一番の失敗となってしまっている。
うん、そうだね。そんな気がするよ。
その傷つくことを恐れる、安心する、楽な姿勢を知らず知らずの内にとっていたこの俺。そりゃ100%楽しいモードになれるわけがないわな。
、、、これも、正直この間あるゼミのzoom会議に紛れ込ませてもらったときに聞いた話から気づいたことなんだ。
詳しくは書かないけど、周りとの協調があーだこーだと言っていた。
そこで教授が、失敗をしないことが一番の失敗的なニュアンスのことを言ったのだ。コチャじゃなくてグループで言えみたいな。そういう参加感を出さなければ、いつまで経ってもコソコソしていたら後輩に指導もクソもないでしょみたいなね。そういう日の光に浴びる場所に頑張って出てきて、そこで失敗してもいいから自分の言葉で何かしてみる。そこで、もらえる反応とかから自分を成長させろみたいなことだと思うんだ。そこから学べと言うことだと思うんだ。俺はそう解釈した。
これ、怖いよね。一歩間違えたらひどい失敗になる。というか、失敗するんだよ。そんなことしてたらね。
でも、そういうことをしない限りは何も学べないと言う立場なのだ。何も始まらないから。これは、、、本当にそうだと思う。ここ一年間以上は、そういうことにとても消極的だった。本当に怖くて、失敗したくなかったから。ぐちゃぐちゃだったからこそ、そう思ってしまった。ゼミ、やりたくて選んだ環境でもなかったという、自分に対しての言い訳もあったから、余計にそう思っていた。俺は本当の意味で失敗してしまっていた。
時間はもう取り戻せない。でもそういう経験をしたからこそ、これからの半年間は精一杯学んでいけたらいいと思う。当初の目的みたいに、ゼミの二刀流、完璧にはできなくても、両方からチョコチョコ話を聞くことで、擬似的にそう言う俺の理想を叶えていけたらいいなと思う。
心理学関連でできた友達とのコミュニケーションによる見える世界の拡大だとか、経営的研究だとか、他者との協働だとか、自分の思考力とかの強化とか、新たな視点の獲得とか、
そう言ったことをしていきたいと強く思うのだ。そういうのを手にできれば、今後の人生で一生使えると思うから。あきらめずに行動していこう。
いろいろあったけど、全部全部、俺が何かを頑張ることをやめる理由にはならない。今ちょっと就活が拗れてしまったから、すごい逆境に立たされているんだけど、むしろそれを利用して、また周りと関わっていこうと思う。もちろん、就活も自分が納得する判断をしていきたいと思う。だからこそ、周りとも関わるのだ。
一日中悩んだりすることも最近は多いけど、そういう日があるからこそプラスの力が生まれているなんて感じる今日この頃。
8月末までは、ちょっと真剣に自分と向き合って、自分の今と、これからをどうしたいのか考え抜こう。
もう死ぬほど頑張っているのだろうけど、最後の一踏ん張りをするって覚悟で、もうちょっと足掻いてみよう。
俺は、絶対にあきらめないぞ。その粘り強さがあったから、今まで負けずにこられたのだ。そこは自信持っていこう。ただ壊れるぐらいの無理はしないように。疲れたら休むし、限界ならやめればいい。けど、俺はまだまだ頑張りたいって思えるから、だからあきらめずに足掻くんだ。目指すは逆転ホームランなのだから。最後まで頑張って、良い年を迎える。あんな辛いこともあった、でもよかったって、笑って今年を終えるんだ。。!
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