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「やばい」「すごい」にひそむ「やばさ」

みなさん、こんにちは
maimaiです🐌

突然ですが、「やばい」「すごい」という言葉を使ったことはありますか?

少し前から「やばい」や「すごい」といった言葉は年代問わず使用されているかと思います。ただ、この一言に集約されている思いはいったいどれほどあるのでしょうか。


本来、「やばい」や「すごい」とは、程度を表すときに使用する言葉です。意味としては、

「やばい」
[形]《形容動詞「やば」の形容詞化》危険や不都合な状況が予測されるさま。あぶない。
「すごい」
[形][文]すご・し[ク]
1 ぞっとするほど恐ろしい。非常に気味が悪い。
2 びっくりするほど程度がはなはだしい。並外れている。大層な。
(goo辞書より引用)


です。思った以上に本来の言葉の意味から離れた使い方をしていることが多いのではないでしょうか。
「本来の意味から離れる」こと自体は、言葉も時代とともに変化していくモノなので悪くないとは思うのですが、一語に内包される意味が多いというのは「語彙力」が育たない一因になっているでしょう。

○言葉とはそもそも多くを捨てて成り立っている

言葉を使用することで、表現できることには限りがあります。
例えば、
「さっき、そこに犬がいたんだ。かわいかったなぁ。」と言ったとしても、受け手は、その犬の犬種や大きさ、色や名前は分かりません。目で見たわけではないので当然と言えばそれまでですが、伝える側が「犬」や「かわいい」という言葉を選んだだけでは伝わる情報に限りがあります。そのため、受け手はその「犬」について、多くの解釈ができます。言葉で情報を伝えようとしても、自分の体験や考えをきちんと伝えるには、より多くの言葉を使用しなければならないわけです。

だから、六法全書や服務規程などは字数がかなり多い。それは、なるべく言葉を捨てず、解釈を一つに絞りたいからです。
逆に小説なんかは、作者が書いた出来事以外の情報を読者が補完することで読書が成立します。ですので、多くの解釈ができますし、それが小説の面白さとも言えます。(見方を変えれば、真に作者の意図通りの読書はできず、「読書=誤読」のようなことになるわけですが)

○言葉の罠と語彙力の罠

話を整理しましょう。
今、言葉は多くを捨てて成り立っているという話をしました。一方で、冒頭では一言に内包される情報が多いあまりに語彙力が育たないという話をしました。一見矛盾しているように感じますが、「言葉が表現できることには限界がある」、だからこそ我々は語彙力でそれをカバーしようとするのではないかと考えます。

安易に「やばい」や「すごい」を使いつづけていると、「とりあえず言っている感」で会話が進んでしまわないでしょうか?明確に自分の考えを伝えたいときに、それを表すだけの言葉を持っていないと、とりあえず「やばい」「すごい」で乗り切れてしまい、いつまでもその危なさに気づかないかもしれません。それこそ本当に「やばい」のではないかと思うのです。

だから、立ち止まって考えることが大切です。

感動するナニカに出会ったとき、その感動を他者に伝えたくても言葉にならないことがあります。そのときは、「語彙力無いなぁ。」くらいにしか思わないかもしれません。しかし、言葉にしようとする気持ちが大切で、「やばい。」でも「すごい。」でもなんでもいいと思いますが、まず言葉にしてみる。ただ、その言葉を発したときに「このやばいってどういう意味のやばいなんやろう?」と考えてほしいなと思います。
それがひいては、表現力の根幹になり得るのではないでしょうか。

こんなこと言いながら、私も「やばい」「すごい」はとても使います。自戒の意も込めて、書きました。


【参考】
・「やばい」の多様さに潜むヤバさ ― お子さんの語彙力、どう育てる?? - マナビコ-manabico (shopro.co.jp)
・『地獄の楽しみ方』京極夏彦

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