いじめられる側にも原因はある
「いじめられる側にも原因はある」
という主張は非常にウケが悪い。
たとえば有名人の誰かがそんなことを言おうものなら
「いじめる側が100%悪いに決まっているだろう」
「加害者を擁護するのか?」
といったコメントが四方八方から飛んでくる。
しかし僕には、むしろそうしたコメントを書き込む人間ほどイジメっ子気質があるように思えてならない。
現に彼らのプロフィールから過去のコメントをたどってみると、別の話題では平気でいじめる側に回っているケースが多々見られる。
そもそも上記のようなコメントをよってたかって個人に浴びせるのも一種のいじめと言えよう。
いじめられる側にも原因はある
いじめられる側にも原因があるというのは紛れもない事実だ。
むしろそれを否定するからイジメや誹謗中傷が一向に減らないのではないだろうか?
「いじめは加害者に100%原因があり、被害者は何も悪くない」
という考えは、裏を返せば"悪い被害者"など存在しないことを意味する。
僕にはこの考えこそがSNSに跋扈する"無自覚のいじめ加害者"を生み出しているように思えてならない。
たとえばネットで特定の人物が叩かれているとき、
「いま彼(女)を叩いている人間と、少し前に誹謗中傷で亡くなった有名人を叩いていた人間のやっていることは同じではないか?」
と指摘する声がちらほら書き込まれる。
だがそうした意見には、必ずと言っていいほど以下のようなコメントがつく。
「こいつの場合は明らかに非があるのだから一緒にするな」
「批判と誹謗中傷は違います」
「彼(女)は悪いことをしたのだから非難されても仕方ないでしょ」
自分たちのやっていることは正当な批判であり、いじめや誹謗中傷などという下劣な行為とは断じて違う。
この問題に関しては叩かれている人間に明らかな非があるのだから、非難されるのは当然だ……と彼らは主張するのだ。
ひどい場合には集団リンチを止めようとした人間が攻撃の対象に変わってしまうケースも少なくない。
(いじめを止めようとした子供が新たないじめのターゲットにされるのと同じ構図である。統一教会騒動で叩かれた太田光はまさにそれだ)
こうした正義感の暴走は
「いじめるほうに100%原因があり、被害者は何も悪くない」
という善悪二元論がもたらした弊害なのではないだろうか?
善良な被害者という幻想
誹謗中傷によって亡くなった(とされる)芸能人は、必ずしも清廉潔白な被害者というわけではない。
むしろなにかしらの失言や非常識な行動が原因となって集団リンチに発展しているケースがほとんどだ。
原因がないというのはどう考えても欺瞞である。
こういうことを書くと必ず誤読する人間がいるのだが、これは原因の話であり責任の話ではない。
いじめの原因となった被害者の性格や言動を変えるべきだと言うつもりはないし、被害者を責めるつもりもまったくない。
矯正が必要だとしたらそれは加害者のほうだろう。
僕が言いたいのは原因と責任は分けて考えなければならないという話だ。
「原因がない」と「責任がない」とでは意味がまったく違う。
それらを混同し、原因を直視しないせいで"清廉潔白な被害者"という幻想が作られる。
そしてその幻想に当てはまらない者、つまり悪いことをした(ように見える)人間なら叩いても構わないという考えにつながるのだ。
非(原因)がないからイジメをしてはいけないのではない。
いかなる理由があってもイジメをしてはいけないのである。
非がないから叩いてはいけないという理屈では、裏を返せば非があれば叩いても良いのだという勘違いを生む。
そうした勘違いをしている人間にいくら誹謗中傷はいけないと言っても何の意味もない。
ここ最近で言うと、某脚本家、小室圭氏、三浦瑠麗氏などを攻撃しているネット民の加害者意識のなさを見ればそれは自明である。
(この具体例に反発を覚えた読者はここまでの話をまったく理解できていない)
非がない個人を集団で糾弾することが悪いのではなく、特定の個人を集団で糾弾すること自体が悪いのである。
たとえその主張が正論であってもそれは変わらない。
いや、むしろ正論であるほど慎重になる必要があるのだ。