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優しい君は幸せになれない
合コンにくり出した同期の同僚たちがひどく気落ちした様子で帰ってきた。
「相手は保育士のお姉さんたちだったが、全然優しくなかったし話もあまり盛り上がらなかった」とのことだった。
悲劇だ。私は頭を抱えた。
もし彼女たちに「保育士」という職業から連想される包容力・優しさを求めるのであれば、同僚たちがするべきだったのは西宮の飲み屋街で杯を呷りセクハラまがいの言動を繰り出すことではなく、園児スモックを着て彼女らが働く保育園に入園し、転んで膝を擦りむいたり、お友達とのオモチャの取り合いの末に泣かされたりするべきだった。
であれば、彼女らの優しさという慈雨を心ゆくまで浴び、その後は絵本の読み聞かせや手遊びで大いに盛り上がることができただろう。
優しさや気遣い、思いやりを与えることを生業にしている彼女たちは、どのような相手を求めて合コンに参加したのだろうか。
逆に彼女らを慈しみと深い懐で包容してくれる人ではないだろうか。
少なくとも園児ばりに甘やかして貰えると期待している人ではないはずだ。
「優しい人」は幸せになれない。これが私の偏見に満ちた確信だ。
優しい人はなぜに優しくあるのだろうか。それは自身が優しくされたいからに他ならない。
相手に優しくする。相手も自分に優しくする。相手に気を使う。相手も自分に気を使う。そんな柔らかな真綿で首を絞め合うような関係性を目指して。
しかし現実はそうそう上手く運ばない。
同僚のような者たちにとって、優しい人の優しさは搾取の対象になる。
優しくされたい。わがままを言いたい。我を通したい。そんな優しい人が必死に腹の奥に押し隠してきた欲求をストレートに発露する彼らは、コミュニケーションの大原則が違う。彼らにギブ&テイクの意識は薄い。
優しい人が振り撒く「優しさ」が天下の廻りもの、いわば一種の流通貨幣的市場価値の産物であることを理解せずに、渡された優しさを一方的にむしり取り、飲み干し、己のお腹に溜め込む。
贈与の積み重ねで富を殖やそうとしていた社会にとって、それがどれだけの強毒であるかは想像に難くないだろう。
例えるならば、優しさの贈与とは魚の養殖だ。
交友関係という生簀へ、優しさという栄養分を撒く。栄養分を撒く。栄養分を撒く。いつの日か丸々と脂の乗った魚が水揚げできることを期待して。
一方で搾取する側の行動原理は原始的略奪農業だ。すべての富は自然発生的なものだと捉え、他人様の生け簀に釣り糸を垂らし、網を投げ、銛を打ち込む。
皆さんも心当たりはないだろうか。いつまでも幸せをつかめない世話焼き気質な人物を。
ジェンダーギャップ的な文意に着地させるのは本意ではないが、『姉御肌/先輩肌』で考えてもらったほうがピンとくるかもしれない。
面倒見が良いがゆえにダメ男にばかり言い寄られて辟易とする女性に心当たりはないだろうか。私にはある。
「優しくしてくれない相手には優しくするの止めればいいじゃん。そうすれば相手も離れていくよ」との意見もあるだろう。
しかしそれは何の解決にもなっていない。ある人が「優しくされたい・気を使われたい」と欲するときに、その人が取れる手段は、『相手に優しくする・気を使うこと』以外に無い。
相手の善意やご厚意任せな胡乱な道筋ではあるが、残念ながらこれが唯一の手段だ。
(相手より立場が上の者が気使われるのは、「腫れ物扱い」という表現が正しいので議論外とする)
そうである以上、優しくされたい人は相手に優しくし続けるしか無い。相手がどんな狼藉を働こうとも。
また、トートロジーめいた言い方をすれば、「優しい人」は本質的に優しいのだ。
「優しい人」としての生きる中では数多くの理不尽や横暴に遭ってきただろう。
にもかかわらず、他人を肘で押しやって自分の居場所を作るような方法ではなく、まず他人に思いやりを与えるところから関係性を始めるという、茨の道を選んだ人間の心根が優しくなくて何であろうか。
そのような本質的に優しい人間にとって「早期に他人へ見切りをつけて特定の人物にのみ辛く・冷たく当たる」という行為はストレス要因でしかないことは明白だ。
悪人が善人になるのは難しい。が、善人が悪人になるのはさらに辛く、苦しい。
悲劇は続いてゆく……。
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