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何でもいいから『天気の子』の話をさせてくれ

 2020年5月27日、新海誠作品『天気の子』のDVD&BD発売を祝して、そして売り上げの一助になればとの思いで感想&考察を書かせて頂きました。
既に観賞された方向けです。(できれば『君の名は。』やその他監督作品も)。ゴリゴリのネタバレ満載なのでまだ見てないよって方はブラウザバックをしてAmazonかTSUTAYAにどうぞ。


1.率直な感想。「監督、ありがとう……」

・公開初日の朝、緊張で吐きそうになっていた
 私は自分のことを新海誠監督の親だと思い込んでいるので、『君の名は。』の予告編が発表された時は「誠君、こんなキャピキャピしたの作って大丈夫?無理してない?」と心配したりしていました。(全くの杞憂でしたが。親はいくつになっても子の心配をしてしまうものなのです)。
 そして今回の『天気の子』、私は公開初日の朝、吐きそうになっていました。というのもよほどのことがない限り前作『君の名は。』の圧倒的ムーブメントを超えることはできないだろうと予測していたからです。
 前作『君の名は。』が日本映画史に残る大ヒットを成し遂げたのは作品の魅力によるところが大きいのは間違いありませんが、それに加えていくつもの偶然が寄与していることは否定できません。列挙すると、

①公開日が8月26日だったことによって夏休み商戦との競合を避けられた(同年夏の東宝配給映画の目玉は『シン・ゴジラ』であり、東宝が本作と観客を食い合うことを避けたのだと推測する。仮に同時期に公開していた場合、スクリーンや広告のパイを奪われていたのは間違いない)
②スタジオジブリの事実上の停止によって天才アニメーター安藤雅司の身体が空いており、作画監督を務めることが出来た
③当時、世間一般にはあまり知られていなかった新海誠監督作品の楽曲制作を、押しも押されもせぬRADWINPSが引き受けたという話題性。
④上に同じく神木隆之介ほか有名俳優の登用

これらの点に対し『天気の子』は①7月19日公開、②安藤雅司氏は不参加、③④に関しては既に世界中の観客が新海誠を知っており、『君の名は。』で上がり切った期待値からのスタート……等々の点で前作とは状況が大きく違いました。そのせいで私は公開日の朝に緊張のあまり腹痛まで起こし、死にそうな面持ちで「紙兎ロペ」を凝視していたのです。

 結論から言いましょう。素晴らしかった。素晴らしかったです。監督からのあまりに真っ直ぐなメッセージに思わず「ありがとう…」という言葉がこぼれました。


・メッセージ性の雄
『天気の子』は前作よりも、そして監督のどの過去作よりもメッセージ性が強かったと感じます。『彼女と彼女の猫』や『秒速5センチメートル』で顕著な、散文的で一種の独白のような作風から大きく変わって、監督が観客を見据えて作っているという感想を真っ先に受けました。そのことは監督が各種メディアで語っている以下の発言からも明らかです。

『…『君の名は。』の次ですから、興行的にも超メジャーなものになります。であれば、多くの人々の価値観が対立するような映画を作りたい。見てくれた誰かと誰かの価値観と価値観がぶつかるような映画でなければいけない、とも考えました。
価値観がぶつかるというのは、「正解がない」ということです。教科書に書かれていたり、政治家や批評家が語るような正しさではなく、“正しさ”は人それぞれのものだし、僕たちが作るのはエンターテインメント映画なのだから、極端な言い方をすれば、正しくない内容を語ろう、いわゆる賛否の分かれるものを作りたいと思ったのです。…』

『…もともと僕の作品は、ファンの方が見てくれて、見るはずのない人たちは見ないタイプの映画でした。ところが『君の名は。』で観客のスケールが大きくなったことで、『天気の子』は、本来、僕の映画を見ない人たちも見てくれる可能性があるわけです。想定していなかった人とも、きっと不可避に出会ってしまう。大きなコミュニケーションが映画とたくさんの観客との間で生まれる。…』
『…今、自分は観客とのコミュニケーションに興味を持っているので、そうした姿をすごく見たいのです。…』
(『天気の子』新海誠監督 賛否が分かれるものを作った、ライター:波多野絵理、エンタメ!NIKKEI STYLE、https://style.nikkei.com/article/DGXMZO46648000X20C19A6000000?channel=DF280120166614、2019/7/4)

『...クライマックスで帆高が叫ぶ言葉は、怒る人がいっぱいいると思うんです。例えば、政治家には絶対叫べない言葉ですよね。最大多数の幸福を目指すのが政治家の仕事ですから。報道番組でもきっとあの言葉は言えないんですよ。教科書に載せられるような、「正しい言葉」ではないんです。エンタメだから叫べるんですよね。そういうメッセージを込めた作品を、『君の名は。』の次の作品というもっとも注目してもらえるタイミングで、やってみたいと思ったんです。』
(『「クライマックスで帆高が叫ぶ言葉は、怒る人がいっぱいいると思う」醍醐虎汰朗×森七菜×新海誠監督――それぞれの“選択”』、ダ・ヴィンチニュース、https://ddnavi.com/interview/554964/a/ 、2019/8/9)


ただ、ここで勘違いしてはいけないのは、監督が『天気の子』のメインターゲット層として想定したのは主人公たちと同じ14、15歳を中心に据えた中高生層である、ということです。
本作に対する批判として「監督のメッセージがあまり刺さらなかった」という趣旨のものがよく聞かれましたが、監督がそもそも私たちオッサンのために作っていないので図々しいの一言です。逆に「俺もうオッサンだけどこの映画めっちゃ刺さった!監督の言いたいこと痛いほどわかった!ありがとう!!」と言っている人(私です)は須賀さんに「いい加減大人になれよ、成年」と言われて下さい。(言われたい)。


2.新海監督のメッセージとは?

 ここまで散々「『天気の子』はメッセージ性の塊!!みんなも監督の叫びを聞いてくれたよな!?」と言っておきながらわざわざ解説を書くのはあまりに野暮ですが、いちおう私が受け取ったメッセージを共有させていただきます。

・若年層への全肯定
 新海監督からのメッセージ、それは「若年層への全肯定」に尽きると思います。
 作中の東京は雨ばかり。大人(夏美さん以上)は「異常気象だ」「今の子供はかわいそう」と言いますが、作中では子供が「天気が異常だ」と言っているシーンはありません。
(唯一それっぽいのは陽菜が廃ビルで言った「せっかく東京来たのに、雨ばっかだね」ですが、ニュアンスが「残念だね」であって「狂ってるよね」ではなく、その後の「今から晴れるよ」に繋ぐための会話なので除外します)。
 子供たちにとっては異常気象という言葉は「物心ついてからいつも言われている言葉」であり、雨続きの天候もいわば「例年通りの異常気象」でしかないのです。
 この「今の時代は(若しくは、若者は)異常だ。間違っている。狂っている」という言は作中の端々に現れており、安井刑事の「今の若者はなんでもそれ(インターネット)に描いちゃうんだろ?」であったり須賀の「年を取ると人間大切なものの順番を入れ替えられなくなる」であったりするわけですが、それに対するアンチテーゼが気象神社の神主の異常気象問答であり、クライマックスの穂高の「天気なんか狂ったままでいいんだ!」なわけです。

 そして3年後の東京。雨は降り続け、低海抜地域は海に沈んでいる。恐らく数百万人が住処や仕事場を失い、東京中、関東中、日本中の誰もが何らかの変化を求められたに違いない、狂った世界。
 それでも雨空の下で子供たちはかつてと何ら変わらぬ姿で遊び駆け回り、人々は桜の開花予想を見ながらお花見の相談をする。山手線はその姿の一部を船に変えながらも、ありふれた日常の足としての役割を果たし続けている。
 穂高は自分たちが天気を狂わせてしまったのではないか?という疑惑を胸に抱きながら東京に戻る。そこで瀧君のおばあちゃんこと立花冨美に「東京はもともと海だった。元に戻っただけだ」と言われ、須賀に「世界なんて最初から狂っていた」とも言われる。穂高はその2つの言葉を繰り返しながら山手“船”で田端へと向かう。そして雨の中で空へ祈る陽菜を見た瞬間に、やはり3年前の自分の行動が東京の天気を狂わせてしまった事を確信する。
 しかしそれと同時に、陽菜の顔を見た瞬間に「いくらこの世界を狂わせてしまったとしても、そしてその狂った世界で生活してゆかなければならないとしても、君がいるから生きてゆける。だから僕らは“大丈夫”だ」とも確信し、ラストの「陽菜さん、僕らは、大丈夫だ」へとつながるわけです。

 つまるところ、たいへん不遜ながら新海監督のメッセージを自分なりに読み解かせてもらえば、
『「最近の若者は……」やら「もう地球は終わりだ」だなんだと大人は言う。だけどこの言葉たちは今までも幾千年幾万年と言われ続けていたことで、その大人たちもが生まれ育った世界もまた、太古より既に「狂って」ていた。
 なるほど、見方によっては確かにこの世界は狂いつつあるのかもしれない。そして狂わせているのは偉そうに説教をしている大人たちだ。しかしどうして、君らはその狂った世界で生きてゆかなければならない。
 若者たちよ、大丈夫だ。狂っていたっていい。壊れていたっていい。社会に後ろ指を指されようとも気にするな。大人たちや社会が押し付けてくる身勝手な価値観に押し固められるな。自分の“大丈夫”を見つけて、大丈夫になっておくれ。』
 というところでしょうか。それらの想いは以下のインタビューからも感じられると思います。

『……「君の名は。」では批判もたくさんいただいたんですが、「災害をなかったことにする映画だ」という意見もありました。僕はそんなつもりはなく、ただ「彼女を死なせたくない」という願いや祈りの結晶のような映画を作りたかった。でもそのことで傷つく人もいるのか、と気づかされました。』

『「君の名は。」以前といまとで、世の中の成り立ちがまったく違ってしまったと感じています。やはりSNSが大きいですよね。社会の透明度が異常に高くなり、炎上や批判で常に誰かが犠牲になって消費される。こんなに息苦しい世界でいまの若者は暮らしているのか、と思います。そんな窮屈さを一足飛びに越えてしまうような、少年少女を描きたかったんです。』
(『新海誠「『天気の子』は前作よりも批判される映画にしたかった」』、AREA、https://dot.asahi.com/aera/2019082200011.html、2019/8/25)


 誰もが情報発信の手段を持つこの時代、我々の価値観は多様となるどころか逆に「たった一つの正解以外を許さない」という狭量なものになっている側面を否定することはできません。そんな自由で窮屈な世界は、穂高が飛び込んだ東京に映し出されています。無数の人間が暮らしあらゆる生活の様式があるのにもかかわらず、よそ者で生活基盤を持たない穂高が入り込むニッチを与えてくれません。

 本作はそんな世界で生きてゆく若年層へ向けた、監督からの熱烈なエールなのではないでしょうか。


・私の隣には監督がいた
私は初鑑賞時、監督がスクリーンから語り掛けてくるように感じました。「ありがたい」という感情ばかりが胸に去就し続けました。
エンドロール中、ふと気配を感じて隣の座席を見ました。新海誠監督が座っていました。
監督もゆっくりとこちらを向き、優しく静かに頷きました。私も頷き返し、小さく「監督、ありがとう……。」と呟きスクリーンに向き直りました。
終劇後、再び隣を見ると小柄な中年女性が座っていました。監督の姿はどこにもありませんでした……。


3.『君の名は。』との比較

・正直やりたくないけど……
 私は新海誠作品の中で特異でターニングポイントだと言われている『君の名は。』をこれ以上なく新海誠らしい作品だと考えており、また個々の作品の良さはフラットな状態で評価されるべきだと思っているので、無理に前作との比較という視点を持ち出したくはありません。
 しかしながら、やはり日本映画史に残るヒットとなった『君の名は。』は本作にも多大な影響を及ぼしたに違いないため、ここからは『君の名は。』と『天気の子』を比較対照しながら分析します。


①「大人の世界」の存在
 『君の名は。』と『天気の子』での最も大きな差異は、主人公たちが関与することのできない「大人の世界」の存在の描かれ方だと考えます。
 『君の名は。』では劇中ほとんどすべてのシーンで瀧・三葉のどちらかが登場しており、ふたりが登場していないのは二言三言のごく短いシーンを除くと
・勅使河原・早耶香が自販機カフェで話しているシーン
・奥寺先輩・司が旅館の自販機喫煙コーナーで話しているシーン
辺りしかありません。そしてそのどちらも瀧・三葉と同年代で近しい者たちの会話です。つまり『君の名は。』は極めて主観的、一人称的な作劇がされており、そのことによって主人公たちの入れ替わりというギミックをより効果的に際立たせているのです。

いっぽう『天気の子』では同様のシーンが
・安井・高井刑事とスカウトマン木村の会話
・安井・高井刑事の蕎麦屋での会話
・須賀と義母間宮の銀座での会話
・須賀と夏美の気象神社への取材
・須賀と夏美の異常気象時の“大人”論議
・安井刑事の須賀に対する穂高逃走時の聞き取り調査
などなど、多岐に渡ります。

 また、『君の名は。』でも「主人公たちがどんなに訴えかけても大人たちが真面目に取り合ってくれない!」という描写はあるものの、基本的に大人たちは自発的に信条や事情に従って各々行動をしたり、状況を変えようとしたりすることは殆どありません。
 それに対し『天気の子』では穂高の指名手配だったり、児童相談所の有無を言わさぬ介入だったり、須賀の子供の引き渡し申請だったりと、主人公たちの全く関与していないところで各々の物語が勝手に動いている描写や展開がとても多いです。
 つまるところ、穂高や陽菜や凪には関与することが出来ない「大人の世界」がこの社会には存在し、それはまるで天気のように自分たちでは揺るがし難く、どうしようもないものであると描写がされているわけです。この「大人の世界」の描写こそが、『天気の子』と前作『君の名は。』のいちばん大きな差異であると考えます。


②W主人公、対構造と二重構造
 『君の名は。』の主人公は?と聞かれれは大半の方は「立花瀧だ」と答えるでしょう。では『天気の子』では?「森嶋穂高」が主人公であることは間違いありません。この映画は彼が神津島からさるびあ丸で上京し、そして三年後に再び上京するまでの物語です。彼の空間軸と時間軸を中心として映画は展開してゆきます。
 ですが、この『天気の子』にはもう一人の主人公がいるような気がしてなりません。ここまでお読みの方ならわかるでしょう、そう、須賀圭介です。

・須賀圭介という前作主人公
 須賀圭介は家出で東京に来た経歴を持っているなど森嶋穂高との共通項が多く、作中でなにかと“大人になってしまった穂高”という描き方をされます。
 また、穂高にかつての自分を見ているのではと夏美に指摘されている通り、須賀としても穂高に対する「放っておけない」という思い入れがあることは間違いありません。
 また、既に交通事故で逝去している妻・明日香との結婚に際しては両家を巻き込んだ大恋愛、駆け落ちをしたと作中で語られており、それもまた劇中で大騒動を巻き起こしながら空から陽菜を連れ出した穂高とおなじです。
 つまり俗っぽい言い方になりますが、須賀圭介とは『天気の子』の前作の主人公なのです。(ややこしい表現で恐縮ですが、前作とは『君の名は。』のことではなくて、須賀を主人公とした『天気の子 エピソードゼロ』的なものがあってもおかしくないよねという意味です。いわば須賀は本作において『スターウォーズ EP4~6』におけるアナキン・スカイウォーカー、『スターウォーズ EP7~9』におけるルーク・スカイウォーカーのようなポジションなわけです。)

・W主人公による二重構造
 本作の表の主人公・穂高はかなりピーキーな主人公です。東宝夏休み商戦アニメのヒーローを張っているという自覚は全くないようで、家出をして捜索願を出される、ネカフェやマックに泊まる、風俗店でスタッフバイトしようとする、いかがわしい雑居ビルの軒先で寝込む、考えなしに人に銃を向ける、警官から逃走する、子供だけでラブホに泊まる、警察署から逃走する、山手線の線路に侵入して3駅以上マラソンをする、恩人に噛みつき銃を向ける、ためらいもなく威嚇射撃する等々、反社会的で考え無しでインモラルな行動は枚挙に暇がありません。私も書き出しながらドン引きしてきました。ただの犯罪者じゃん。最終的に東京を沈めているわけですしね。
 そんなわけで『天気の子』に対する批判の中で「主人公(穂高)に感情移入できない/共感できない」という意見を多く聞いたように感じます。

 そもそも論として「主人公には感情移入できるようにしないといけないのか?」ということに関しては、「必ずしも感情移入できなくてもよい」のは間違いありません。ですが主人公を自分と重ね合わせるのは最も平易で強力な楽しみ方であり、東宝夏休み商戦アニメの主人公としては、万人にとって感情移入のしやすいキャラでないことはある意味致命的です。敢えて断言するなら、作品特性的に森嶋穂高というキャラクターは「ナシ」だとすら言えます
 これらのことは先にも引用した以下のインタビューから新海監督も自覚的であることが読み取れます。

『...クライマックスで帆高が叫ぶ言葉は、怒る人がいっぱいいると思うんです。例えば、政治家には絶対叫べない言葉ですよね。最大多数の幸福を目指すのが政治家の仕事ですから。報道番組でもきっとあの言葉は言えないんですよ。教科書に載せられるような、「正しい言葉」ではないんです。エンタメだから叫べるんですよね。そういうメッセージを込めた作品を、『君の名は。』の次の作品というもっとも注目してもらえるタイミングで、やってみたいと思ったんです。』
(『「クライマックスで帆高が叫ぶ言葉は、怒る人がいっぱいいると思う」醍醐虎汰朗×森七菜×新海誠監督――それぞれの“選択”』、ダ・ヴィンチニュース、https://ddnavi.com/interview/554964/a/ 、2019/8/9)


 そんな致命的な欠陥を抱えた『天気の子』を支えているのが裏の主人公、須賀圭介です。どうしても穂高の行動を肯定できない・許せないという観客たちにとっては、作中で「オイオイオイ、穂高なにしてんだよ」というポジションの須賀は、それはそれは感情移入しやすいキャラクターです。加えて
・子持ち
・仕事に問題を抱えている
・家族関係にも問題を抱えている
・大切なものが多く無責任な行動が出来ない  etc……

 これほどまでに責任世代の心をくすぐる属性が盛り沢山です。気が付けばみな自分を須賀圭介だと思い込み、クライマックスで代々木の廃ビルに駆けつけてしまうという仕組みになっています。

 以上のことが『天気の子』に仕掛けられた二重構造です。前章で「本作のメインターゲット層は14、15歳を中心に据えた中高生層だ」と述べましたが、彼ら彼女らを中心とした観客の何割かは「(穂高……、がんばれ!)」と思い、またメインターゲット層よりも年上を中心とした何割かは「(須賀さん、幸せになってくれ……)」と考えています。
 つまり『天気の子』は、『言の葉の庭』以前のような「刺さる人には刺さる」というような作品の尖り方をしていると同時に、メインターゲット層以外も置き去りにしないような仕掛けが施されているのです。
 そして自分を須賀圭介だと思い込んでしまった人々は、新海誠監督に肩をポンポンと叩かれて、「僕ら、おじさんになっちゃいましたね」と語りかけられているのではないでしょうか。


③RADWIMPSとの親和性
 前作『君の名は。』においてRADWIMPSの楽曲と映像のリンクが高く評価されていたことに関しては説明の必要は無いでしょう。
 新海監督から野田洋次郎氏への「何分何秒のところに無音の小節が入っている曲を作って」というような無茶ぶりがあったり、また逆に上がってきた楽曲に合わせる形でビデオコンテの改変を行ったりということが横行していたのは様々なインタビューで暴露されています。

 そして『天気の子』でも前作のような楽曲と映像の高度なリンクは健在です。これらの素晴らしさについても紙面を割きたいことこの上ないのですが、いくら文字で説明したところで畳水練ですのでここでは割愛します。AmazonかTSUTAYAに走ってください。
 以上のことに加えて本作ではRADWIMPSと作品の親和性が脚本に関してまで及んでいる点が、前作との比較において極めて顕著な差異だと感じました。

・そもそもの話
 そもそも『君の名は。』においてRADWIMPSが楽曲を担当した経緯は、既に完成した脚本や原案を囲んでの企画会議において新海監督自身が希望として名を挙げたこと、そしてプロデューサーの川村元気氏がRADWIMPSとのコネクションを持っていたことです。つまり既に脚本がある状態においてのオファーだったということです。
 一方『天気の子』ではどうでしょうか。新海監督のTwitterにてこのようなことが発信されています。

新海誠@shinkaimakoto
『天気の子』の音楽は、僕からRADWIMPSにお願いしました。彼らとならば『君の名は。』でやったことも踏まえたうえで、もっと深いところまで観客と一緒に行けるのではと考えたからです。でもそういう理由とは別にして、(続く
https://twitter.com/shinkaimakoto/status/1115698517165477888、2019/4/10 4:30)

新海誠@shinkaimakoto
続き)僕は『天気の子』の脚本を書き上げた時にそれを誰かに読んでほしくて、その「誰か」を考えた時に最初に浮かんだのが洋次郎さんだったのです。それが一昨年の夏でした。以来、RADとスタッフ達、帆高や陽菜たちと一緒にずいぶん長く旅してきた気がします。早く皆さんの元まで辿り着けますように。
https://twitter.com/shinkaimakoto/status/1115698847156588546、2019/4/10 4:31)


以下は完成報告会見での会話です。

新海誠監督:最初に脚本を書いて、友人として「洋次郎さん、どんな音が聞こえてきますか?」という曖昧なお願いから始まって
RADWIMPS・野田洋次郎:LINEにコピペ的な脚本が貼られてくるから、「メールでもらっていいですか?」って…
新海誠監督:(笑)
RADWIMPS・野田洋次郎:それで、曲をお渡しして…
新海誠監督:その歌詞を聴いて初めて、帆高ってこの時こういう気持ちだった、陽菜ってこういう子なんだ、みたいなものが曲に書いてあると思って
新海誠監督:僕の知らない少年少女の気持ちみたいなものが、洋次郎さんの曲の中に入っていて、それを発見していくような…
(本田翼“裸足&すっぴん”の役作り暴露され「恥ずかしい…」 新海誠監督の最新作「天気の子」めざましテレビ、FNN PRIME online、https://www.fnn.jp/articles/-/1268、2019/7/3)

 これらのことから、脚本のかなり初期からRADWIMPSを意識し、また野田洋次郎氏が関わっていたことが窺い知れます。
 また特に最後の「大丈夫」のシーンに関しては、2019年11月4日にNHK総合テレビにおいて放送された『「天気の子」と僕ら~RADWIMPS×新海誠~』において、新海監督から『「大丈夫」という曲に、映画のラストシーンに込めたかったことが全て入っていた』との発言がありました。
 本作の脚本においてRADWIMPSが果たした役割の大きさは、前作と比べるべくもないのは明白です

・『天気の子』は新海誠から野田洋次郎への壮大なラブレター
これらのことは劇中のせりふ回しからも感じ取ることが出来ます。多少なりとも新海誠作品とRADWIMPSの楽曲を嗜んだことのある方であれば、『天気の子』を観た時に「いままでの新海作品とはせりふ回しの印象が違うな」「そこかしこから匂い立つRADWIMPS感は何だ」という感覚が湧き上がったかと思います。
 どこがどう、ということは感覚的なものなので説明が難しいですが、個人的に「野田洋次郎ぽい~~!!」とテンションが上がったのが「家族の時間」の穂高のモノローグ、『神様、お願いです。これ以上僕たちになにも足さず、僕たちからなにも引かないでください。』ですね。一瞬「こういう歌詞あったかも?」とすら思いました。
 そもそも、『君の名は。』の際に監督がRADWIMPSへオファーを出すことを希望していた理由として、彼らの楽曲の詞が素晴らしく、以前よりファンであったと発言しています。また「スパークル」の“うつくしくもがくよ”というフレーズに惚れ込み、小説版執筆時にクライマックス章のタイトルにまでしてしまったということからも、新海誠監督は野田洋次郎氏の言語センスへの愛が深いことは間違いありません。
つまるところ胡乱な言い方になりますが、本作の脚本やセリフ回しは野田洋次郎節へ意図的に“寄せられている”と言ってもよいのではないかと考えられます。

・前提としての被害者、無意識の加害者
 ここでは『天気の子』とRADWIMPSの詞の中の哲学で通じるところを解説したいと思います。
(ただでさえ彼氏面オタクが多い新海誠分野に加えて、考察厨や過激派ファンの多いRADWIMPSの解釈までぶちまけるのは純粋に怖いですが、RADファンの端くれとして経験と知識とカビの生えかかった勇気を持って臨みます。)

 本作で色濃く見ることが出来るRADWIMPS的哲学は、【前提としての被害者、無意識の加害者】です。否定的な意見ではありますが、それを的確に射抜いた友人のツイートがあったので紹介しておきます。

Mr.Densha@mrdensha
『愛にできること(以下略』をはじめ、あの人が書く歌詞にちょいちょい見え隠れする「大前提としての被害者」みたいなスタンスが大いに気に食わないし、そういう立場を言語化するにはあまりにも日本語が下手だし、まぁ、そりゃ今のネット社会では大いにウケるでしょうねっていうのが今のところの見解。
https://twitter.com/mrdensha/status/1201137233572458496、2019/12/1 22:53)

 ここで論じられている「前提としての被害者」という観点は正鵠を得ており、RADWIMPSの歌詞とは切っても切り離せません。自己不全感にまみれた被害者意識。ですがそこには対になるモチーフが存在します。それが「無意識の被害者」です。
 この対のモチーフもRAD楽曲でよく見られるもので、例を挙げると2013年リリースの『×と〇と罪と』に収録されている『最後の晩餐』では

誰かほら、ちゃんと言ってやってよ その君の笑顔は
誰かの悲しみで生まれ 絶望で花開くと
(RADWIMPS、『最後の晩餐』、作詞:野田洋次郎、2013年)

と歌われています。他にも同アルバム収録の『DARMA GRAND PRIX』では

さぁ今日はどちらでいこう 全部世界のせいにして
被害者ヘブンで管巻くか 加害者思想で謝罪大会

前者選んだ君は正解 試しに一つ差し出してみな
この世で一番の不幸者を 今なら素通りしてみせるよ
(前奏)
止まらぬ涙の感動 空前絶後の大ヒット
なんともめでたいことだけど その涙の出所は誰?
(RADWIMPS、『DARMA GRAND PRIX』、作詞:野田洋次郎、2013)

と歌われています。『最後の晩餐』の歌詞は自明に「無意識の加害者」を語っていますが、『DARMA GRAND PRIX』のほうは少し分かりにくいのでざっくり解説しますと、

「加害者ぶって「ごめんなさい」って言っても誰も評価してはくれないよな。でも被害者ぶって大げさに不幸披露したら、(本当に不幸かどうかは関係なく)みんなの注目の的になる」
「みんな感動して泣いて、社会現象にまでなったね。でも泣いてるあんたらの涙はどこから来てるの?人の不幸を食い物にしてるんじゃないの?

と言ったところでしょうか。とどのつまり「被害者をちやほやして感動話に仕立て上げるけど、それは人の不幸をコンテンツ消費してるんじゃないの?」という「無意識の加害者」論です。

 さて、この【前提としての被害者、無意識の加害者】というモチーフは『天気の子』で軸として登場します。
 作中において登場人物たちは、多かれ少なかれ社会に馴染めていない被害者としての側面を持っています。
 家出し東京のどこにも居場所を見つけられず、たまたま拳銃を拾ってしまったがために警察権力に追われることになった穂高。親が死に、人に迷惑をかけないように必死で生きながらも家族バラバラにされかけている陽菜・凪きょうだい。妻を失い荒れてしまったがために娘と引き離され、姑からは色眼鏡で見られている須賀。望むと望まざるとに関わらず就活競争に巻き込まれ、己を見失いそうになる夏美。そして何より、天気を沈めるための人柱になってしまう陽菜。
 ですが彼ら彼女らは同時に無意識の加害者としての側面を持っています。
 夏美は自分の後ろめたさに負けて、陽菜に天気の巫女は人柱である話をしてしまいます。須賀は自分の生活を守るために穂高と陽菜を見捨てようとします。穂高・陽菜・凪ははした金のために天気を大きく乱してしまいます。そして穂高は己のエゴのために陽菜を迎えに行きそして陽菜は己のために祈って、二人で“世界の形を決定的に変えて”しまうわけです。
 しかしながらここから先が新海誠脚本の意地悪な所で、この映画には彼ら彼女らよりずっと大きな【前提としての被害者、無意識の加害者】が描かれています。それは異常気象に苦しんでおり、そして直接的・間接的に晴れを願った東京の人々です。
長雨に苦しむ一般市民は、天気という圧倒的な力に太刀打ちできずにいる被害者です。そんな状況下で「100%の晴れ女」を介して晴れを願う行為は、悪意などひと欠片もない純粋な願い・祈りでしょう。ですが、彼ら彼女らのその願いによって天気は狂い始め、陽菜はその身を透かしてゆきます。そう、娘と遊びたいと願った須賀や、広義においては花火大会を晴れにしたいと熱望した人々、そして穂高たちへ示唆めいたことを伝えた立花冨美までもが無意識の加害者に他ならないのです。
その後乱れた天気を鎮めるために陽菜は人柱になる訳ですが、その際も【前提としての被害者、無意識の加害者】のモチーフが如実に表れています。真夏に雪が降るというまでの異常気象に見舞われ、街は交通網が麻痺して帰宅困難者という被害者に溢れます。
その中で人柱のことを(半信半疑ながら)知っている須賀は「人ひとりで天気が元通りになるなら安いものだ」という旨のことまで言います。この発言には2つの示唆を含んでおり、
①東京に住む大半の人間は同じように考えるに違いない。
②いままでの“正常な”天気も、過去に存在していた数多の天気の巫女の犠牲の上に成り立っている。(人々は既に「無意識の加害者」である)
というものです。
(特に②に関しては「100%の晴れ女」「空から魚」を扱っていたウェブサイトで「東京を支える無数の人柱」の話が出ているのが思わせぶりです)

 そして夜が明け、本来の季節感を取り戻した晴天を見上げて人々は喜び声を口にします。挙句の果てには夢で垣間見た空へと昇る陽菜を美談めいた言葉で紡ぎます。
なんと皮肉の効いたシーンでしょうか。ここで再び先ほどのRADWIMPSの『DARMA GRAND PRIX』の一節を引用させて頂きます。

『止まらぬ涙の感動 空前絶後の大ヒット
なんともめでたいことだけど その涙の出所は誰?』

(RADWIMPS、『DARMA GRAND PRIX』、作詞:野田洋次郎、2013)

 このシーンでは殆どの登場人物は晴れを喜んでいるのに、観客にはその陽光がうすら寒いものに感じられます。そして真実を知り、昨晩陽菜に「雨が上がってほしい」と言ってしまった穂高は自責の念に苦しみ、のうのうと晴れを享受する人々にいら立ってパトカーで「陽菜さんと引き換えに、この空は晴れたんだ!それなのに皆なにも知らないで、馬鹿みたいに喜んで……!」と叫ぶ訳です。

 ここら辺はほんとうに性格悪い新海誠が遺憾なく発揮されていて趣が深いですね。忘れがちですが新海誠監督は本当に意地悪です。『秒速5センチメートル』を観賞済みの方はクライマックスの踏切シーンを思い出してください。電車が通過し切る瞬間に反対向きの電車も来るあの瞬間にどれだけ世の人の心を弄べば気が済むんだ!!となりませんでした?私はなりました。気が狂うかと思いました。
 またかなり丁寧に毒抜きして、人口に膾炙するように作られた前作『君の名は。』においてもその皮肉さは見え隠れしています。クライマックスの手に書かれた文字は本当に意地悪ですし、彗星落下時のニュースキャスターのナレーションを思い出してください。

「これほど壮麗な天体現象を目撃していること、また、日本がちょうど夜の時間帯であることは、私たちにとってまさに千年に一度の幸運です」
「この時代に生きる私たちにとっての、大変な幸福と言うべきでしょう」

性格が悪い!!シンプルに性格が悪いですよね。(でもそんなところも愛してるぜ監督)
 また、『君の名は。』は8月末という公開時期に合わせて“夏が終わり、秋が静かに近づいてくる時期のもの悲しさ”という作品を通した雰囲気を、標高の高い山間部では東京より早く秋が来ることをも舞台装置として利用して表現しています。
いっぽう『天気の子』は夏ド真ん中公開であることを生かして、“夏の高揚感や解放感”を、観客の中高生の夏休みのワクワク感をも利用して存分に味わせています。そこまでお膳立てしてからの上記の皮肉です。
 例えるならば舞台を用意して人を集めてノリのいい音楽をかけて、散々気持ちよく躍り狂わせた後に、「ダンス楽しかったですか?ちなみに皆さんが躍って踏みつけているそこ、実はお墓なんですよね」と突きつけているようなものです。それが『天気の子』。これぞ新海誠監督。

 最後に、RADWIMPSの2016年のアルバム『人間開花』より『O&O』の歌詞を紹介させて頂きます。(なお、このアルバムは『君の名は。』の劇伴関連である『前前前世 [original ver.]』や『スパークル [original ver.]』、そして野田洋次郎氏が「最後の最後まで『君の名は。』の劇伴に入れるか迷った曲で、『前前前世』か『光』で迷ってた。」と語った楽曲『光』が収録されています。)


『涙の向こうに喜びが待っていても 嵐の向こうに太陽が待っていても
向こうに君がいないとしたら 僕は遠慮しよう 一人でここに残るよ』(RADWIMPS、『O&O』、作詞:野田洋次郎、2016)


4.新海誠作品の中での位置づけ

 前章ではグダグダと『天気の子』と『君の名は。』の比較をしてきたわけですが、新海誠監督作品の中においてはどのような位置付けになるでしょうか。私は特に監督が観客へのメッセージ性を第一に打ち立てた点において、新海誠史における大きなターニングポイントになるのではないかと考えています。

・「俺たちの新海誠が帰ってきた」論について
2016年の『君の名は。』の公開時、世の新海誠古参オタクたちは真っ二つに割れました。『君の名は。』を新海誠の新境地だと捉えるか、それとも「俺たちの新海誠は失われてしまった」と捉えるかです。確かに『君の名は。』は、今までの監督作品の作風を大きく翻しており、その点に関しては大きな転換点だと言えます。「新海誠であって新海誠でない」などと評価もされていました。
 ですが、私は『君の名は。』をこれほどに新海誠でなければ作りえなかった作品は無いと考えています。『君の名は。』は画面レイアウトや作中概念、脚本展開に至るまで、過去作品の要素をブリコラージュし、ブラッシュアップしたものだと言っても過言ではありません。(特に商業的に失敗し、いままで無かったことにされがちだった『星を追う子ども』の要素を核に据えた構成は、大変勇気のあるものだったと思います)。
 その上で『君の名は。』は作家性を意識的にコントロールすることで作風を翻し、かつ高い完成度で組み上げたことは驚嘆に値します
例えるならば野菜料理数品をリメイクしてガッツリ系の料理を作ったようなものなのです。

 さて、時は進んで2019年。『天気の子』の公開で「俺たちの新海誠は失われてしまった」派のオタクたちは歓喜します。「『君の名は。』的な作風ながら、結末に賛否両論な作品だ」「俺たちの新海誠が帰ってきた」と。
ですが新海誠はいつでもそこにいたのです。一時も失われてはいません。

・『天気の子』こそが本当のターニングポイント
 本章の冒頭にも書きましたが、私は監督がターゲット層の観客へメッセージを届けることを第一に打ち立てた点において、本作品が新海誠史における大きなターニングポイントになると考えています。
 もちろん今までのどの作品も観客の存在を意識し、どのように受け取られるかを意識して作られていました。『言の葉の庭』あたりから実在の商品や広告が可能な限り作中にそのまま登場するようになったのは、監督の「アニメのお約束的なブランド名のパロディ等で観客に余計なノイズを与えたくない」と言う意向からですし、監督のTwitterで公開された『君の名は。』の感情グラフは一時話題となりました。

新海誠@shinkaimakoto
先ほどの感情グラフのようなものを、脚本のブラッシュアップと同時に何稿も重ねて行ったのでした。
https://twitter.com/shinkaimakoto/status/856512972025233408、2017/4/24 23:19)

 ですがそれらのギミックや手法は、あくまでも作品の内容を余すところなく伝えるためという側面が強かったように思います。
 「ちゃんと伝わるように作品を作るけれど、そこからどのようなメッセージを感じ取るかは君次第」。そんな背中で語る職人タイプだったのです。『天気の子』で監督が隣の席から語り掛けてきたというのは、新海誠史において“異常事態”だったのです。

 いちおう、監督の名誉のために記しておきますが、「どのようなメッセージを受け取っても、受け取らなくてもいいよ」というスタンスは今の新海誠監督も一貫して持っているのは間違いありません。ただ、今までは「渾身の美しい結晶を作りたい」という風な動機で作品作りをしているように感じていたのに対し、『天気の子』ではメッセージを発信することに作品作りのインセンティブを得ていた印象を受けました


・変化の理由は
 では、このような変化の理由は何でしょうか? まあ、そんなことを考えたって監督ご本人に自己分析していただくしかないのですが……。
 月並みながら私は監督が父親としての性格を強めているからではないかと考えています。
 現在、各種メディアやFoorinでご活躍されている新海誠監督の娘の新津ちせさんは『君の名は。』公開時に7歳。監督が『天気の子』の原案『天気予報の君』を構想したのもその頃だと考えられます。
 教育現場では“小学一年生は宇宙人”などと揶揄されるそうですが、そんな宇宙人も卒業し本格的に物心がつき始める頃。実際に『君の名は。』の監督登壇イベントで「娘がコンビニで『お父さん有名人だからバレたら大変だね』と言ってきて、このままではイヤな女の人になってしまうと……」と子煩悩トークをしていました。
 彼女が監督の作家性に大きな影響を与えているのは間違いありませんし、それが作品作りに対するインセンティブにまで及んでいたとしても、何ら不可解ではないと思います。
 また、一部では新津ちせさんが思春期・反抗期に入ることによって新海誠監督作品にも多くな変化が現れるのではないかという噂がまことしやかにささやかれています。これからの新海誠監督からも目が離せません。

(すべて推論になってしまうテーマで申し訳ございませんでした。)


5.ほんとは言わない方がいいこと――スペシャルサンクスについて

 ここまでは新海誠監督に読まれても構わないという内容を書いてきた(つもり)ですが、ここから先はちょっと掟破りな内容です。願わくば監督が目にすることがありませんように。(杞憂でしょうが)

・エンドロールのスペシャルサンクスが途方もない代物だった
 『天気の子』のエンドロール、良かったですよね。『愛にできることはまだあるかい』をバックに声の出演で立花瀧や宮水三葉、宮水四葉、そして勅使河原・名取夫妻(?)の名前が登場して劇場が少し騒がしくなったり、「スカウトマン木村:木村良平」でクスリと来たり。
 各所各所で何度も登場する「新海誠」の文字も、『言の葉の庭』の頃と比較すれば目立たなくなりましたが健在でした。
 ですが私はその後のスペシャルサンクスの部分で眼を剥かずにはいられなかったのです。
 スペシャルサンクスで一人目にクレジットされていたのが三坂知絵子さん、二人目が新津ちせさんでした。端的に言ってしまえば新海監督の奥様と娘さんです。そう書いてしまえば簡単なのですが、新海誠ファンにとっては大変な意味を持つクレジットでした。

・監督の婚約者の方について
 話は変わりますが、新海監督には婚約していらっしゃった方がいました。篠原美香さんという方で、奥様である三坂知絵子さんとは別のお方です。下のエントリに詳しい経緯が上手くまとめてあります。新海誠ファンらしい極めて気持ちの悪い文章(誉め言葉)なので興味のある方は心してお読みください。
(sinsin9999さん、申し訳ございません……。問題ございましたらご連絡ください)

映画「君の名は」を観て、新海誠監督に裏切られたと悟った件。
by sinsin9999
http://worldtriggersite.hatenablog.com/entry/2016/11/23/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A6%B3%E3%81%A6%E3%80%81%E6%96%B0%E6%B5%B7%E8%AA%A0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AB%E8%A3%8F%E5%88%87%E3%82%89


要点をざっくり簡単にまとめますと、

・新海監督には篠原美香さんという婚約者がいらっしゃり、初期作品では監督と二人で声を当てたこともあった。
・残念ながら篠原さんと新海監督は結婚なさらなかったらしい。
・その後発表された『秒速5センチメートル』のヒロインの苗字が「篠原」。
(なお主人公は小学校高学年~中学生のヒロインとの初恋を社会人になっても引きずっているが、ヒロインは他の人と結婚して幸せな家庭を築く。)
・さらに数年後に、新海監督がすでに結婚され娘も生まれていたことが発覚。
・それが三坂知絵子さんと新津ちせさん。

という感じです。
 これらのことから分かるかと思いますが、『秒速5センチメートル』は監督がめちゃくちゃに病んでいる時の作品です。別れた婚約者の名前を、10数年追い続けて結ばれなかった、それどころか会う事すらできなかったヒロインにつけるのは、あまり冷静な判断だとは言えません。
 たまに「新海誠作品は『秒速5センチメートル』こそが至高!あの頃こそ本来の新海誠」などと言うファンがいますが、本来なわけないだろ、慮れよ、推して知れという感じです。

・「二度と会えない症候群」からの離脱
 そんな強烈な経験を持った新海誠監督ですが、その精神状態から脱していることが垣間見られたのは2013年の『言の葉の庭』において。このとき新津ちせさんが3歳なので、監督は既に結婚もされていた頃です。
 本作は映画本編だと15歳の少年タカオと27歳の女性ユキノの恋は結ばれずに終わります。しかしながら、監督が取りこぼした話をふんだんに盛り込んで制作した、いわば完全版『言の葉の庭』と言うべき小説版では、二人は4年半後に再会をしています。それも4年半にわたる文通の後に、です。
 これがどのような事だかわかるでしょうか? 文通と言えば、『秒速5センチメートル』において早々に途切れてしまった連絡手段。その上に再会をしていたということは、監督は『秒速5センチメートル』以来の「二度と会えない症候群」を克服していたということです。

 更に時が進み、2016年の『君の名は。』の公開。本作の公開後に監督の奥様や娘さんのことがメディアで公になりました。本作の特典映像中では監督が「出来上がったものはまず妻にみてもらい、褒めてもらって自信を貰います」という旨の発言をしています。これらのことから、少なくとも『君の名は。』以降からは、監督は作品を奥様と支え合って作っていることが分かります

 そして2019年、『天気の子』公開。そしてエンドロールの初っ端で、三坂知絵子さんと新津ちせさんが登場したのです。これが途轍もない長い道のりであったことはこれ以上語る必要は無いでしょう。
 そこの未だに「『秒5』の頃ガ―」って言ってるオタク! 監督は力強く前に進んでるぞ! いい加減に大人になれよ、中年。

(追記:『君の名は。』のエンドロールにはご家族の名前がクレジットされていない認識だったのですが、見返したところありました……。それに合わせて内容を変更しました。大変申し訳ございません)

・年上フェチの話
 唐突ですが、新海誠監督が年上女性×年下男子好きであることはほぼ間違いありません。
 監督が性癖を爆発させた作品『言の葉の庭』で、ポルノと見まがうほどに美しく昇華された足フェチがまき散らされたことはあまりにも有名ですが、それと同時に公然と世に見せつけたのが年上フェチです。
 先述の通り本作の主人公タカオは高校一年生ですが、ヒロイン女性は27歳。一瞬「条例とか大丈夫かな?」と思ってしまう組み合わせです。また本作に出てくる唯一のカップル、タカオの友人の松本・佐藤カップルも女性の佐藤が一つ上の学年の年の差カップルになっています。それを3人全員が互いにタメ口で話すということによって隠し、その上で佐藤の上履きの色だけ変えて年の差を暗示するといういやらしさ。

 『君の名は。』でも瀧が当初憧れを抱いている奥寺先輩は高校2年の瀧にとって圧倒的に大人である成人大学生です。また、本作のヒロインの三葉ははじめ瀧と同い年のように描写されていましたが、3年の時間のずれによって再会時には年上女性になっています。
 公開当時、「新海監督は同い年でないと成立しにくい入れ替わりの物語において、年上女性とのカップリングを作るために時間がズレているギミックを考案したのではないか」とまで思ってしまいました。
(なお奥寺先輩は最終的に瀧の友人、司と結ばれ婚約をします。これも年上女性×年下男子カップルですね。主人公が憧れていた(そしてちょっとイイ感じになった)女性が他の男と結婚をする図は『秒速5センチメートル』と共通していますが、その後の展開や描かれ方の印象からも監督の変化が感じ取れるのではないでしょうか。)

 さて一方で『天気の子』はいかがでしょうか。登場する須賀夏美は大学4年生、浪人・留年をしていなくても22歳ですので、年上女性であることは間違いありません。ですが!ヒロインである天野陽菜はなんということでしょう、当所は年上を自称していながら、その実は年下ヒロインだったのです。
 まるで『君の名は。』の三葉の意趣返しとでも言うべき構図。この点からも新海誠監督の変化を感じることが出来るのではないのでしょうか。
 また、たいへん下世話ながら付け加えさせて頂きますと、監督の奥様の三坂知絵子さんは監督の4歳年下だそうです。


6.おわりに


  円盤を買ってください。

 長々と『天気の子』のことを語ってしまいましたが、ここまでの2万字のようなことを全く知らず・考えずとも、また他の監督作品を知らずとも、単品でもたいへん完成度の高い素晴らしい作品です。ここまで読まれた方で未観賞の方はまずいないとは思いますが、もしそうであれば、まずはTSUTAYAでレンタルして鑑賞してみてください。その後に円盤を買ってください。

本当は他にも

・K&Aプランニングという場所のヤバさについて
・天気の力と拳銃という2つの物語の中心が存在すること
・穂高の地元である神津島に実際に行ってみて感じたこと
・『天気の子』で一貫して表現される“物語”の否定性
・2代目さるびあ丸と代々木会館
・穂高が須賀の服を着ていることについて
・天気の力をロゴス/エロス論からひも解く―「天気で稼ごう!」という一線に関して

などなど、書きたいトピックスはまだ沢山あるのですが、一旦ここで筆を置かせて頂きます。特に神津島の話はいつか書きたいです。

最後にもう一つだけ。

円盤を買ってください。

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