02病気は怖くない
病気になると「仕事ができなくなるのではないかと不安」「手足が動かなくなるのではないかと思うと怖い」など、いろいろ悪いことを考えてしまいがちです。
でも、いまはとても恵まれた時代で、
・病気になった → 病院で治療が受けられます。
・お金がない → 生活保護では医療費が無料です。
・痛い → 痛み止めの薬があります。
驚くほどいろいろな制度があります。
そうはいっても、この説明だけで不安がすべて晴れることはないでしょう。そこで、20代で交通事故によって首から下が動かなくなり、施設に入所したIさんの不安が、事故の20年後にどうなったのかを見ていくことにします。
私が、ボイラー搭載の車に浴槽を積み込み、3人1組で入浴のお手伝いをして回るという仕事をしていたときのことです。
私たちはIさんの元へ行き、まず石けんで体を洗い、垢をこすって体をきれいにします。そのあと、彼は好みの温度に調整された湯に浸かります。この間、彼は我々に文句を言ったり、昔話をしたりしながら、笑顔で悦に入っているようでした。
最後に私たちは、彼からの司令を待たずしてプリズン・ブレイクのDVDをセットしてから帰ります。そうすると、彼はニヤリとしながら「さすが、わかってるね」と言います。それが彼とのお決まりのやり取りです。そして夜には、施設のスタッフと麻雀をしながらタバコを吸うのが楽しみなのだそうです。
私は、そんなIさんの様子を見て、とても不思議に思いました。彼は体が動かないことに対して不安がないのでしょうか。
ふつうなら「この先どうなるんだろう?」「もう治らないのかな?」などのよくないことを考えながら落ち込み、風呂に入りながら雑談をする余裕なんてないはずです。彼にこのことをたずねると、やはり交通事故の直後には大きな不安に苛まれたそうですが、今は安心して生活しているそうです。
このように、人間というのは悪い状況が変わらなく続いても、何日も休まずに泣き続けることはできないようです。私は数万人の患者さんと出会ってきましたが、そんな人はひとりもいませんでした。時間が経てば必ず雨が止むように、私が微笑みかけると笑顔を返せるようになるものです。そしてもし、長い間落ち込むのなら、こころを治療するという解決策もあるのです。
では、なぜIさんはそのような過酷な状況にあっても、楽しく生活できているのでしょうか。図を見てください。
側から見てみると、「−:手足が動かない」というのが彼の人生に大きな影を落としているように見えます。実際に、手足が動かないことによって、生活のかなり多くの部分に他人の手伝いが必要で、おそらくこの状態は元に戻ることはなく一生続きます。
しかし、いまの生活では「+:麻雀が楽しい」「+:お風呂が気持ちいい」「+:文句が言える」「+:タバコがおいしい」ということを感じながら生活をしています(グレーで強調して表示してある部分)。その一方で「−:手足が動かない」「−:文句がある」ということについては、それほど意識することなく過ごせています(グレーで強調していない部分)。
このように、私たちはいつもマイナスの出来事や状態ばかり考えて生きているわけではありません。寝食を忘れてゲームに熱中したりすることもあれば、ただただ、ぼーっと時間を過ごすこともあります。実は、いま目の前にあることを優先して生きようとしてしまうのです。Iさんにとっては、過去の事故や未来に渡って手足が動かないことよりも、いまのお風呂、いまの麻雀なのです。
別の視点からも見てみようと思います。そもそも「−:手足が動かない」とはどういうことでしょうか。そこには「他の人は手足が動くのに」「なぜ自分だけが」という、他人と比べてしまう思いがありそうです。
Iさんが悲観的になっているときには、他人と比較しています。もちろん、手足が動かないこと自体への動揺もあるでしょう。でも彼の苦悩の多くは、不便であったり思いどおりにいかないことがあったりしたときに、「普通の人は手足を自由に動かせるのに自分はできない」という意識から生まれていると考えられます。
たとえば、手の小さなギタリストなら「どうして自分の指はこんなに短いのだろう」と悩んだことが一度くらいはあるでしょう。でもそれは、本当は手の大きさの問題ではなく、コードが押さえづらいという不便さに対しての不満なのです。もし、周囲のギタリストの手が実は自分より小さいことがわかったり、コードが不自由なく押さえられたりしたならば、おそらく彼の苦悩は解消されてしまうでしょう。
私たち医療者は、話をしたり、検査をしたり、手術をしたり、薬を調整したり、食事を考えたり、一緒にリハビリをしたり、助けてくれる人を探したり、やりたい事を実現できる方法を一緒に模索したり、まるで二人三脚のように患者さんと共に歩んでいきます。
これは、病気の自分となりたい自分との間のギャップが埋まるようにお手伝いするためでもありますが、まず私は何よりも、日常の生活が不便なく、問題なくできることに重きを置いています。スムーズに生活ができるようになれば、身体の不自由さそのものは消えないとしても、知らないうちに他人との比較をしなくなり、意識の中からスッと不安が消えていくものなのです。このような状態になることを、私は「病気を受け入れる」と呼んでいます。
もちろん、それは「病気に甘んじる」ということではありません。本当の意味で病気を受け入れられれば、不安があっても楽しく生きていくことができます。病気は決して怖くないのです。
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