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神燈奇譚〈一〉

第一話 翠玉の少女

 広大な砂漠の遙か遠くまで連なる、巨大な砂丘群。そのなだらかな砂の稜線からは、朝日が今にも顔を出そうとしていた。
 白み始めた空を背に、東の大国・インからの隊商は、まだ薄暗い砂原で駱駝たちを急がせる。
宿サライが見えてきたぞ! これでようやく休める!」
「もうすぐだって思ってからが長いんだよなあ……」
「よせよ、気が滅入るだろ!」
 盗賊や野獣に襲われやすい夜が終わりに近づき、隊列の後方では気の緩んだ商人達が他愛ない雑談に興じていた。
「それにしても、今回はやけに賊が多かったな」
「近頃この辺は物騒らしいからな。でもまあ、ラズワルドまで無事に着きそうでよかっ――」
 談笑していた男は、異変に気付いて飛びずさった。
「な、なんだ!?」
 すぐ目の前で積荷を運んでいた駱駝が、鈍い音を立てて膝から崩れ落ちた。
 砂の上に荷物が散乱し、倒れ込んだ駱駝の腹には矢が突き刺さっている。にわかに一行の顔色が変わり、空気が張りつめた。
「あーあ……またかあ」
 先頭を行く隊長の商人が、間延びした声を上げて駱駝の上から振り返る。
 馬に乗り大ぶりの湾刀を手にした男たちが、あちこちの砂丘の影から一斉に現れた。
「命が惜しけりゃあ、金目のものを置いていきな!」
「その台詞、そろそろ千回くらい聞いたかもしれないなあ」
 隊長の康永叔カンヨンシュは、砂避けの布から覗く垂れ目を細めて呆れ気味に呟いた。
 交易目的で高価な積荷を運ぶ彼らは、盗賊たちの格好の標的だ。少年時代から十数年この仕事に従事している永叔にとって、こうした襲撃は日常茶飯事だった。
 旅の危険は承知の上であり、自分の身を守る術くらいは心得ている。その上、比較的裕福で規模の大きい隊商であれば、用心棒を連れていることも珍しくない。
 一行も例外ではなく、賊が姿を現わすのと同時に雇われた者たちが抜刀し、臨戦態勢を取った。襲い掛かる賊に、商人たちとともに応戦する。馬と駱駝と人間が入り乱れ、砂埃が舞う。
「怯むな! 数はこっちの方が多い!」
 とはいえ、長旅の終盤とあって皆疲弊していた。片や近くの拠点から現れただろう盗賊たちは俊敏に馬を乗り回し、町が近いためか装備も充実している。がいる以上負けはしないだろうが、負傷者が出ることは避けられそうにない。
 乱闘の中、永叔は騎上から賊を槍で散らしながら、起伏や物陰の多い砂原を見渡した。
(……射手がいるのが厄介だな。駱駝に乗った大男なんて、いい的に――)
 危惧したとおりに永叔を狙った矢が放たれた刹那、翠の瞳が煌めいた。矢柄が一閃した霜刃に斬り捨てられる。
 はっとして永叔が振り向くと、砂の上に落ちている折れた矢と、両手の柳葉刀で賊を切り伏せながら駆けて行く少女の背が見えた。
「……今のってもしかして、オレに飛んできた矢を叩き落とし、ついでに近くにいた盗賊を蹴散らしながら射手を仕留めようと矢の飛んできた方角へ向かって行った……ってコト!?」
「でなければなんだって言うんだ?」
 同じく駱駝に乗った若い商人が、賊を槍で薙ぎ払いながら近づいてくる。
「速すぎてよくわかんなかったからさ~。え? 文懿ウェンイーは今のフェイちゃんの動き見えたの?」
「まさか。見えるわけないだろう」
 永叔の甥、康文懿カンウェンイーは平然と答えた。
 用心棒のシァフェイは、十七歳の少女ながら並外れた戦闘能力を有していた。黒い髪に翠緑の瞳、年相応かやや華奢なくらいの身体と、見た目はいたって普通の少女だ。貧民街に住む彼女は、永叔が出会ったときは既に破落戸に交じって用心棒のようなことをしていたが、なぜここまで人間離れした身体能力があるのかは本人にもよくわからないらしかった。
「永叔さん! 大丈夫ですか?」
 ひとしきり賊を討伐した少女が、血と脂に塗れた得物を手に雇い主の元に駆け寄る。
「おかげさまで」
 この細身のどこにそんな力があるのかと不思議に思いながらも、永叔は感謝を込めて笑いかけた。今回彼女には諸事情で多めの給金を渡していたが、元が取れたどころか、彼女がいなければ自分は死んでいたかもしれない。以前の砂漠の民は本業の片手間に旅人を襲う程度だったのが、年々略奪に特化した集団が増えているように感じる。
 周囲を見ると、劣勢と判断した盗賊たちが散り散りになって撤退しつつあった。
「賊が逃げるぞ! 捕まえてラズワルド軍に引き渡すか?」
 運が良ければ巡回しているところに出くわすかもしれないし、そうでなくとももう少しで国境に着く。今にも駱駝を走らせて追いかけようとする文懿を、永叔が制した。
「いーよ、無理しなくて。それより、さっさと怪我人の手当と荷物の積み直しをして先へ進もう」
 呑気な隊長の言葉に、文懿は眉を顰めた。
「放っておいたら帰路でまた出くわすかもしれないだろう?」
「そうはいっても、オレらは商人なんだから、商品と自分の身を護ることが一番大事。せっかくいなくなってくれたのを、下手に追いかけて死人なんて出そうものなら本末転倒でしょ?」
「……まあ、それは一理あるが」
 文懿は経験豊富な永叔の言葉にしぶしぶ納得し、遠ざかっていく盗賊たちの背中を忌々しそうに睨みつけた。
 兄から預かった大事な甥っ子に怪我をさせたくない永叔は、ほっと胸を撫で下ろした。
「文懿は兄貴に似て心配性だなあ。でも軽い男よりはそれくらい慎重な方がいいよね。ね、翡ちゃん!」
 甥を売り込もうと永叔が期待を込めた眼差しで話題を振ると、翡は考え込んだ。
「……そうですね、敵わないとわかってる以上は、もう一度襲ってくる可能性は低いと思います。それに、もし襲ってきたらまた返り討ちにするので大丈夫です」
 文懿への評価ではなく文懿の心配事について訊かれていると思った翡は、大真面目に答える。
「うーん、そっちか」
 見当外れの返答に、永叔は天を仰いだ。
「おい、先へ進むんだろう。さっさと積み直すぞ」
 叔父の思惑に勘付いた文懿は、落胆する彼を冷ややかな目で見ながら、周りの商人に指示を出し始めた。
「はいはい。隊長は俺なんだけどねー」
 なおも「お似合いだと思うんだけどなあ」とぼやく永叔とこっそり頷く面々を、昇ったばかりの朝日が照らし出した。

***

 まだ仄暗い部屋の中で、白くゆったりとした衣に身を包んだ青年が革張りの椅子に腰かけ、彫刻のように整った美貌を不機嫌そうに歪めていた。鮮やかな洎夫藍サフラン色の髪や純白の装束に散りばめられた青い宝石は、窓から差し込みはじめた薄明かりを反射してきらきらと輝いている。
 その傍らには、従者と思しき生真面目そうな片眼鏡の男が、やや緊張した面持ちで佇んでいた。
 二人の目の前の卓上には繊細な装飾の施された銀製の盆が置かれ、主らしき青年は、黄金の腕輪を幾重にも纏った腕で頬杖をつきながらその中を覗き込む。
 浅い銀器に湛えられた水の面には、何者かと戦う屈強な戦士が映っていた。
「いかがでしょうか、ファルシャード様」
「……………はぁ」
 若き主は卓上に片肘をついたまま、不満げに溜息を漏らした。溜息をつきたいのはこちらの方だと苦々しく思いながらも、従者は主の次の言葉を待った。
「醜い」
 想定通りの評価を聞いた従者は、淡々と次の作業に移った。彼が左手で水面を撫でるように覆うと、別の人物が映し出される。
「アミル、もう少しマシなやつはいないのか?」
 指で小刻みに卓を叩き、主が苛立ちを露わにする。
「……申し訳ございません」
 従者アミルが水面に何者かを映しては、主人のファルシャードが文句をつける。夜通しそればかりを繰り返し続けていた二人は、そろそろ互いにこの不毛な作業に辟易していた。
「夜も明けてまいりましたし、少しくらい妥協されてはいかがでしょうか?」
「なんだと?」
 ファルシャードは、形の良い眉根を寄せて睨みつけた。瑠璃色の瞳の下にうっすらと隈を浮かべながらも、この作業を中断しようという気は微塵もないようだった。
「美しい者ならこの宮殿にはすでに充分おります。警護の者のうちのたかが数名くらい、容姿には目を瞑りませんか」
 うんざりした様子ではあるが、同じく夜通し、それも立ったまま務めをこなしていたアミルの方には、目立った疲労の気配はない。
「俺は美しい者を集めたいわけではない。美しくないものを視界に入れたくないだけだ。もとはと言えば、お前が無能なせいだろう? 何故強く美しい人間を見つけるだけのことができない?」
「何度も申し上げているとおり、強さは他者との比較で知ることができますが、美の基準は曖昧すぎて私には判断がつきかねるのです」
 何を美しいと感じるかは人それぞれだ。とはいえ、ファルシャードにとって美しい顔さえわかれば済む話なのだが、それを客観的に説明する能力がファルシャードにはなく、アミルもまた、心を読むなりして主の言う美貌がどんなものかを察するような術は持っていなかった。
「毎日これだけ近くで美そのものと顔を突き合わせているというのに、いっこうに審美眼が磨かれないのは何故だ? この顔を見て、あまりの美しさにうち震え、美を愛する心が芽生えたりしないのか?」
「……ファルシャード様が美しいということは存じてはおりますが、私自身がそのように感じたことは一度もありませんので」
 要するに『お前を美しいと思ったことはない』と言われているのだが、ファルシャードは怒るのではなく、ただただ呆れと憐れみの入り混じった視線を向けた。
「はぁ、これだから鳥人間は……」
「お言葉ですが、私は元が鳥というだけでそのような面妖なものではありません」
 だからこそ、人間の顔の見分けがつくだけでも褒められてしかるべきでは、とアミルは心の内でぼやいた。大抵の人間には、鳥の顔など区別がつかないのだから。
「もういい。さっさと次を映せ」
 アミルは主の説得を諦め、命じられたとおりに作業を再開した。今度は小柄な人物が盆の上に躍り出る。どうせまた一蹴されるのだろうと再び翳しかけた手を、ファルシャードが制止した。
「――待て。こいつの顔をよく見せろ」
 これまでに映し出された男たちとはうってかわって華奢な体つきをしている。細くしなやかな腕から、次々と鮮やかな剣技が繰り出されていた。
 アミルがその上で手を軽く握り、再び開くと、水面には凛とした少女の顔が映し出された。
「ああ、ようやく及第点だ」
 満足げな声に、アミルは安堵した。人間の美醜の基準がわからずにだいぶ手間取ってしまったが、主の眼鏡に適う人物をついに見つけることができた。
「ほら、この美しい瞳を見ろ。まるで指輪の石みたいじゃないか」
 そう言ってファルシャードは、自分の人差し指に嵌めた大粒の翠玉エメラルドを顔の前で軽く振って見せた。

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