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表現することについて―アートと看板―

 よく「時間はできるものでなく作るもの」という。子どもたちが二十四時間密着生活をしていたときは、心が擦り切れていて、それは不本意に心削られていない人が言うことだと思っていたけれど、今もやっぱりそう思っている。
 最近、子どもたちが学校に行っている間に小説を書いたり、ファミリーサポートの子どもの預かりをしたり、アート鑑賞に出かけたりしている。そういう自分がやりたいからやる活動を、完全に自分の裁量で、家事と仕事と育児の合間に入れられる生活に戻ったら、体がいくつあっても足りないなと感じるようになった。家事育児に忙殺されていたときは、それ以外の活動をやっていいと思いもしなかったし、「時間は作るもの」と言っている人に、こんなに疲れているのに寝る時間を削れと?と反発を覚えたものだった。
 だから、「時間は作るもの」は、心身ともに擦り切れている人に言う言葉ではないと思うのだ。ちゃんと心身ともに健康な生活を送っていて、その上でやりたいことが溢れていて、時間の管理が難しくなっている人が、時間の使い方を見直したほうが良いときに、自分に対してだけ言ってもいい言葉だと思うのだ。

 話は変わるが、横浜トリエンナーレに行った。
 会場となっている横浜美術館は、先月友人たちと行ってきた。他会場は今週、一人で鑑賞してきた。
 トリエンナーレは、インスタレーション作品の良さが存分に感じられる。それからパフォーマンスの面白さも。私は、自分の表現方法が小説なので、つい言葉で考えがちなのだが、そうした作品の数々は、私の身体、感覚器官に強く訴えてくる。身体を揺さぶられるようなものだと思う。
 たとえばマレーシア各地に残る第二次世界大戦の抗日運動犠牲者の追悼碑とゴムの木を紙に拓刷りした作品。言葉を尽くしても語りきれないことが、薄い紙に転写されている不思議な重さみたいなものを、感覚的に経験することができると思う。

 これまたトリエンナーレとは全然関係ない話なのだが、上記作品を見に行った日、ちょうど小学生の我が子の学校から、近所の公園にゴミを捨てないように家庭でも話してくださいという内容のメールが送られてきたばかりだったので、ふと、アート表現と公園にある「ボール遊びをしないでください」という類の注意書きのことを重ねて考えてしまった。
 私は、あの種の注意書きが苦手だ。苦手という言葉では弱いかもしれない。スナフキンのように看板を叩き割って歩いたりはしないが、正直叩き割りたい衝動にかられる。というのも、あの種の注意書きが多くの嘘くさい大人の事情を隠蔽したうえで、バーンと効果音でもつけてやりたいような感じで正論を書いてあるからなのだと思う。
 アートは違う。オブラートに包んだりしない。オブラートに包むとすれば、そうすることが思いの表現に最も効果的な場合だけなのである。
 結局のところ、私は本当の思いを隠したままの無機質な言葉が苦手なのだと思う。世界は、ごちゃごちゃと雑多で、カオスなのが自然だ。それは、疲れるけれど面白いことでもあると思う。

 ファミサポで他人の子を預かって、久々にまだ親から離れられない子に触れた。預けられるのが初めてなので、ほどなく母親を探し始め、預かりのほとんどの時間を泣くことに費やした。その全身で表現することの素晴らしさよ。それでも時々、気になるものがあると泣き止んで、じっと見つめたりする。その世界に対する時の素直な態度に感動した。
 子どもたちには、そうした態度を忘れないでほしいと思う。嘘で何十にもコーティングされた人間にならないでほしい。
 社会生活を営む中で、ワガママばかり言っていられないと、私自身、自分の思いに蓋をすることはある。が、自分がどうしたいかではなく、他人からどう見えるかばかり気にしていると、嘘コーティング人間になってしまう。まず自分がどう思っているかをよく感じるのは、非常に大事なプロセスだと思う。
 そして、腕を磨くほうが良いのだと思う。本当の思いを隠蔽した表現ではなく、どうしたら思いが伝わるか、というところから思いを表現すれば良いのだと思う。アートのように。


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