うん、もう少し待ってるね

「生きる」「好き」
そんなことを改めて考える1年で、デカダンスみたいだったと昨日書いた

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夜中の投稿に対し、翌朝には早々にスキやコメントをいただけていて、
自分でも想像していなかったほど嬉しく、正直どこかホッとした。

久しぶり過ぎて誰も読んでくれないかもしれないと思っていた。

最近は誰のnoteも読みに伺えていなかったので、
こちらがアップした時だけ読んでもらおうなんて虫が良いとわかっていた。

読まれなくたって自分のために上げようと腹を括って(保険をかけて)いた。
本当は誰かに読んで欲しいなと思いながら書いたに決まっているのに。

コメントをくださったお二方の文面には、僕の想定なんかを遥かに上回り、
共通して『最近ヤマダさんのことを考えた』と書いてあった。

ある種どうでもいい僕の心情の吐露を、率直な気持ちで惹かれると、
そしてプロは文章が上手いと評してくださった。

人生をひっくりかえすような出来事があったと近況を語ってくださり、
(noteを拝読してもそれが何なのか汲み取れておらず気になっていますが、)
こちらが読みに伺えていない空白の時間を少し埋めてくださった。

こんな僕でも誰かの記憶に残っていたり、待っていてくれたりするんだと、
心底ありがたくて、温かいものを感じた。


そう、っていてくれるという「期待」こそ、
2021年の間ずっと、僕が何より求めてきたものだった。

コメントを読んで、それを再認識して、実感して、鳥肌が立った。

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昨日は久しぶりの投稿だったので誤解や心配を招きたくなく控えたが、
デカダンスたらしめる本当のところをもう少し踏み込んで言ってしまえば、
生きることや好きなことを考えるということは、
自ずと生きていない状態や好きでない状態も考えるということだ。

くれぐれも念を押しておくが、
生きていない状態を自ら作ってしまう行為のことは指していない。

相反するものとして、思考上の定義として、そんなことをずっと考えていた。

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「生きている」「好きである」
これは期待や満足を伴って成り立っている、ように思う。

期待や満足がないと、
「生きていない」「好きでない」になる。

二人称にした方が伝わりやすそうなので言い換えると、
期待されれば生き生きとそれに応えるための活力や熱意が生まれ、
十分な機能や特徴に(人なら性質や容姿に)満足する時、好きだと感じる。

つまりは逆の流れも実に単純且つあっさりと起こりがち。

期待されていないのかもしれないなんて考え始めると、
“生きている意味ってなんだろう”とか、

満足してもらえるものが提供できていないなんて思うと、
“以前ほど求められていない”“嫌われたかも”、

というような思考が、いとも簡単に頭をもたげ始める。

こういう思考が仕事や対人や恋愛において転嫁されてしまう時が面倒で、
“だから仕事がなくなった?”
“それで連絡が来ないのか?”
“あんな言い方だったのはそういう意味に違いない!”

と、負の結論が頭や心を埋め尽くし、ぐるぐると駆け巡る。

極端なようで、実は誰でも大差なくこんな感じでダークサイドに落ちていそう。

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やっぱり一人で考え続けるのはだめらしい。
誰かに時々、心情や近況を吐露しないと。

オレの(ワタシの)近況なんて誰が興味あるよ?なんて思わず。

実は結構興味があるし、言ってくれたらリアクションができる。


わかっているんだけど、わかっていたんだけど、わからなくなる。


わからなくならないように時々言ってあげればいいんだと思った。

「待ってるよ」って。


今できない事情があるなら言っておけばいいんだと思うよ。

「待っててね」って。


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