ジョーン・ロビンソン「現代経済学」書評
ロビンソンの新古典派への毒舌などをまとめておきます。
個人的にはポストケインジアンの入門書としておすすめできます。
Lavoieの「ポストケインズ派経済学入門」
ジェームズ・K・ガルブレイス「現代マクロ経済学」
ジョーン・ロビンソン、イートウェル「現代経済学」
この三つはPK入門としてよいのではないでしょうか。
経済学は三つの側面あるいは機能をもっている。すなわち、経済がどのように機能するのかということを理解すること、それを改善するような提案をすること、そして、その改善を評価する基準を正当化することである。なにが望ましいかということに関する基準は必然的に、道徳的および政治的な評価に関係せざるをえない。経済学は、人間的な意味を交えない、厳密な意味での「純粋」科学には決してなりえない。経済的諸問題を考えるときにとられる道徳的、政治的立場が、対象としている問題自体、また使用されている分析の方法ときわめて複雑に関係していて、政治経済学のこの三つの要素を峻別することは必ずしも容易ではないということがよくある。
新古典派理論の薄っぺらな知的構造が突っ立っているようにみえるのは、現実的な重みがごくわずかしか加わっていないからであった。自由市場で、競争が慈悲深い影響が及ぼすという学説が実際に意味してたのは、事業家が一番よく知っているから任せておけばよいということであった。政府の介入はすべて、いかに善意をもっていたとしても、害を及ぼすとされていたから、理論からは政府の行動に対する勧告はなにも導き出されなかった。理論が意味を成しているかどうかということは、全く問題とされなかったのである。
課税の目的は支出に対する支払いのためにお金を手に入れるのではなく、需要を、私的な目的から公共的な目的に逸らすことである。したがって、「とても払いきれない」という政治家の主張は、社会的に有益な支出要求に対しては正当な回答になっていない。遊休資源を雇用するときにはなんの費用もかからない。資源が完全に利用されているときにもこのような弁解は次のようなことをいっているのに等しい。「政府は病院をもっと建設するだけの余裕がない。高級アパートや自動車道路の建設に、希少な建設資源を廻せなくなるからだ」
一国の政府が、その労働力の雇用水準に関与するという考え方は、正統的な自由放任主義に大きく違背し、経済活動のあらゆる局面に公共政策を関与させようというものである。
均衡と自由貿易との理論という正統派の学説は、第三世界の知識人たちの間に広まっているが、かれらが直面する問題になんの役にも立たない。均衡理論は、自由放任主義を擁護するような推論を説いたものであるが、発展を政策の目的とみなす考え自体すでに自由放任主義とは相いれないものである。自由貿易の擁護は輸出と輸入が常に均衡するというモデルにもとづいて展開されているが、他方では、第三世界の国はすべて外貨の不足に悩んでいるのである。第三世界のインテリゲンチャは、新しい経済分析の方法を通じて、自分たちの問題にいっそう明確な光を当てることができよう。しかし、どこにその解答を見出すかということは、経済学のみにもとづいて答えることは不可能である。