結局、我々は人間である。

1. コンピュータによるオセロと人間によるオセロ

技術者でありオセロプレイヤーである私は、おそらく非常に異質であろうことに、オセロAI、つまりコンピュータにオセロをさせること、を通じて人力でのオセロを始めた。オセロAI制作の腕前は、例えばコンテストで世界1位を取り、独自に評価関数の研究をする程度のものである。一方で人力で行うオセロの腕前は、日本オセロ連盟3級、弱いということはないが決して強くはない程度のものである。

1997年8月、当時のオセロ世界チャンピオンの村上健氏と当時のトップオセロAIであるLogistelloが対戦し、Logistelloが6戦全勝した。コンピュータによるオセロは、人間の能力を凌駕して久しい。私のオセロAIも例外ではなく、私自身はもちろん、おそらくまともに対戦を挑めば人間が敵うとは思えない強さである。

しかし、人間はオセロを辞めなかった。様々な人が、今日もオセロを楽しんでいる。

私が世界1位を獲得したオセロAIコンテストは常設で、常に順位が変動している。私が初めて世界1位になったのは2021年11月、実に9ヶ月も前の話である。そして私が人力でのオセロを本格的に始めたのが2022年4月である。最近、オセロAIコンテストでは他の参加者のレベルが上がり、一時的に私が世界1位から陥落することがあった。

2021年11月には見えなかったものが見えるようになっていた。

オセロAIコンテストは無論、オセロAI同士で対戦するのであるが、その対戦は実につまらないものであった。不利な手を打った方が負ける。それだけの世界なのである。オセロAIが人間の能力を凌駕してから25年が経過しているのだ。オセロは、完全解析(初手から両者最善手しか打たない場合に結果がどうなるのか求めること)こそされていないものの、コンピュータの手にかかればごく高確率で最善手を的中することができるようになっていた。逆に、最善手を外せばすぐに敗北へと突き進むことになる。余談であるが、現在ではオセロの完全解析結果の予測として引き分けの説が有力とされる。

翻って、人間によるオセロはどうだろうか。実はもっと深みがある。2021年11月には微塵も知らなかったが、オセロというゲームは実に美しいものであったのだ。ごく単純なルールであるのに、または単純であるからこそ、完結かつ深い戦略が生まれるのだ、と現在の私は認識している。

よくある誤解であるが、オセロは自分の石の数を最大化するゲームというよりは、むしろ相手をうまく負けに誘導するゲームという側面が強い。

オセロに詳しくないだろう多くの読者も、オセロにおいて隅の4マスが強いことはご存知の方が多いだろう。強いマスや強い手があれば、弱いマスや弱い手もある。自分は強い手を打って、相手には弱い手を打たせること、つまり、相手を弱い手に誘導することが大切である。

では、相手に弱い手を打たせるにはどうしたら良いのだろうか。単純な話で、相手の打てるところを弱い手だけにしてしまえば良いのである。

オセロは自分の石を最大化するゲームではなく、相手を誘導し、自分の手のひらで転がすゲームなのである。

人間はコンピュータとは比較できないほど先読みが遅い。私のオセロAIは0.1秒程度あれば20マス空いた状態から必ず最善手を言い当てることができる。しかし人間には、必ず言い当てることは到底できないであろう。

だからこそ、人間によるオセロは深いのである。人間はコンピュータとは違い、頻繁にミスをする。相手を翻弄することがオセロの本質の1つであるならば、相手のミスを誘うことが有効な戦術になるだろう。たとえこちらが(オセロAIが言うには)不利な手を打とうとも、その不利の度合いを上回るミスを相手がすれば良いのである。もちろん、オセロの進行には片方のプレイヤーにとって打ちやすい、または打ちにくいものが多く存在する。さらに、人間であれば各々が好きな進行、嫌いな進行がある。

もう一度コンピュータによるオセロの現状を振り返れば、これはミスをした方が負けるという単純な話であった。一方で人間によるオセロは、オセロAIの有無に関わらず、常に相手をうまく翻弄するための戦術が大切となってきた。

オセロにおいて、コンピュータが人間よりも強いことは公然の事実である。しかし、人間によるオセロの奥深さは変わらないでいる。もしかしたら、オセロAIの登場によってその奥深さは確固たるものになったのかもしれないとさえ思う。


2. 人工知能の発展

昨今、日本ではIT(情報技術)人材が不足していると叫ばれる。日本社会の潮流として、なんとなく、情報技術が発展の鍵であるという考えの浸透を感じている。かく言う私もIT人材の片鱗ではあるが、社会に染み付いたこの考えに若干の疑問を抱くようになった。

昨今の話題はAI(人工知能)であろう。この数年でこの言葉を聞く機会は大幅に増えたように感じる。身近なところでは、すでに"AI"とは思えないほどに浸透しているが、予測変換技術だって人工知能の一種と言えよう。さらにスマートスピーカや、ごく最近では絵を描く人工知能まで、様々な人工知能が活躍している。

人工知能などという大層な名前によって、この技術はなにやら得体の知れないすごい技術であるとよく誤解される。人工知能と言えども、結局は巧妙に組まれた大きな手続き、つまりアルゴリズムである。この手続きがあまりにも複雑であるため、人工知能に何かを問いかけたときの反応を見ると、あたかもそこに知能があるように見えるというだけである。オセロAIを例にすれば、盤面を見せたら的確に良い手を言い当ててくれるという現象に、人間が勝手に知性を感じているだけである。

とは言え、知性や思考が人間の特権であろうと、薄々と、でも疑う余地なく考えていた社会が、現在では揺らいでいると感じる。

余談であるが、人工知能と言えばすぐに深層学習や強化学習といった最近特に話題になっている個々の技術に結びつける風潮は個人的によく思わない。例えば、私のオセロAIは深層学習も強化学習も一切使っていないが、その挙動には知性を感じずにはいられない。

具体的に4つの分野について、人工知能の性能がどれほどのものかを見てみることにする。

ゲームAIは比較的発展のスピードが早かった。1997年にはチェスとオセロ、2010年代には将棋と囲碁で、ことごとく人間の世界チャンピオンが打ち倒された。囲碁は人間より強くなるまであと10年かかるとも言われたが、2015年であった。これは、とある発想の転換によってアルゴリズムの性能が劇的に上がったからである。

画像認識に関する技術も歴史は長く、現在すでに実用化されている技術は列挙するには多すぎる。もはや画像認識とは思っていないものではスーパーのレジで商品のバーコードを読み取る技術さえも画像認識であろう。最近では、例えば車の自動運転のために車線や標識、歩行者などをきちんと認識する技術が盛んに研究されてきた。

以下の2つは私自身が技術自体についてあまり詳しくないため、技術的な内容にはあまり触れない。

画像生成に関する技術は、まさに今話題となっている技術だと感じる。Midjourneyという、言わば「画伯AI」が大流行している。これは英語で情景を書いて入力すればものの1分で絵画を出力してくれるというものである。

機械翻訳に関する技術は私の中高生時代(2014-2020年)に大幅に進歩したと感じる。中学1年生のとき、学校でGoogle翻訳を使用した遊びが流行った。Google翻訳に適当な日本語の文章を入力し、適当な言語に翻訳する。そして、その翻訳結果をGoogle翻訳で日本語に翻訳し直して、生成された文章を楽しむというものである。つまり、再翻訳を使った遊びであった。当時、「羹に懲りて膾を吹く」という諺を再翻訳すると非常に面白い結果が得られた。再翻訳で経由する言語を様々に変えても、ほぼ必ず「大腸菌」という言葉がどこからともなく現れていた。1、2年後にふと思い出してこれを実行したときには、特に面白いものではなくなっていた。2017年にはDeepLという高精度な機械翻訳が登場した。Google翻訳とDeepLとでそれぞれ得手不得手は違えど、2つとも現在は実用に耐えうる精度となっている。

余談であるが、この記事を執筆中に試しに「羹に懲りて膾を吹く」をGoogle翻訳で英語に翻訳してみると「swear at the kan」などというよくわからないものになっていた。kanはおそらく羹の音読みであろう。つまり、Google翻訳は「羹を罵倒する」という解釈をしてしまったと推測できる。諺の翻訳の難しさを感じる。DeepLでは「羹に懲りて膾を吹く」に対応する英語の諺である「a burnt child dreads the fire」を出力してきた。諺については往々にしてDeepLがGoogle翻訳に勝っているとよく言われる。

人工知能と呼ばれる技術は日進月歩である。オセロで人間が全くコンピュータに歯が立たなくなったように、いずれ他の分野においても人間がコンピュータに敵わなくなる時代は来るような気がする。そしてそれはもちろん、創作分野においても起こりうることだと思う。


3. 人間回帰

もし創作分野、特に芸術分野において人工知能が「創造的」な作品を生み出すようになったらどうなるだろうか。私は技術分野に背景を持つ人と芸術分野に背景を持つ人、それぞれ幾人もと話してみて、なんとなく「人間回帰」と名付けた現象が起きるような気がした。

人間回帰と名付けた現象について軽く解説する。創作活動の結果得られた作品の価値を考えたとき、作品自体の価値はもちろん、人間が制作したことそれ自体にも価値を見出す時代が来るのではないかという推測が、人間回帰である。現在は、技術こそが素晴らしいという風潮を私は感じている。しかし、人工知能という技術が創作活動を行える時代が来たとき、結局、人間が制作することに価値を見出し始めるのではないかという推測である。

余談であるが、「人間回帰」は最初、「アナログ回帰」という名前で考えていた。しかし、「アナログ」という言葉自体は「計数的でない」といった意味で、人間という存在への言及はないと感じたため、名称を変更した。

人工知能の話ではないが、現時点でも人間回帰を垣間見ることはできる。音楽を聴くという行為にこれを見ることができると思う。音楽を聴くことに関して、技術の発展は目覚ましい。スマートフォンでいくらでも音楽を聴くことができる。しかし、音楽を聴くことに特段のこだわりを持っていない私でさえも、スマートフォンで聴く音楽とコンサートホールで聴く音楽には明らかな感情的な違いがある。

私は音楽のサブスクリプションに入っていない上に、iPhoneの音楽アプリが除去(アイコンは残るが中の情報は消去されている状態)されていたため、2020年頃に変更されたはずのアイコンがつい最近まで昔のままであったほどであるので特殊かもしれない。しかし、音楽のライブに赴く人は多いであろう。

コンサートやライブではその場の雰囲気に価値を感じるという考えもあり、私も賛同する。しかし、結局その雰囲気を作るのは鑑賞者まで含めた人間であると思う。

芸術作品について、往々にしてその作品には作者の経験や考えという背景があると考えている。では、思考実験として、人工知能が人間同等に創造的な作品を制作できる上に、自動的に様々な「経験」をして、その作品に背景を付けたり、背景から作品を制作したりできるようにもなったとする。それでも人間回帰は変わらないだろうか。

それでも人間回帰は起こると私は考える。音楽についてもう一度考えれば、多くの人がスマートフォンで音楽を聴く。そして多くの人がライブに足を運ぶ。もちろん多くの人がこの両方を行うであろう。これと同じようなものだと思う。

人工知能が制作した作品を日常的に鑑賞するようになるであろう。しかし、それだけで終わることはないと考える。人間が制作した作品には多くの人が特別な価値をなんとなく見出すだろう。

曖昧な表現ではあるが、なんとなく人間に対して温かみのようなものを感じるのは、人間の性ではないだろうか。結局、芸術作品を楽しむのは人間である。人間の鑑賞者が人間の制作した作品を見たいと感じる気持ちはなくならない気がする。


4. 結局、我々は人間である。

人工知能を含め、技術は当分、凄まじい速さで発展を継続するだろう。芸術作品を制作する人工知能の性能は格段に向上し、もはや作品の質は人間による作品よりも良いと言えるようになるかもしれない。

オセロにおいて、オセロAIが発展しすぎた結果、皮肉であるかもしれないが、コンピュータ同士のオセロの、オセロというゲームが持つ面白みはなくなったと私は感じている。その結果か、少なくとも2005年までは確実に存在していたオセロAIの対戦プラットフォームは今となっては跡形もなく消えている。現在、オセロAIの大きなコンテストはほとんど存在しない。

芸術において、もし人工知能が人間の能力を超越する時代が来ても、それは人工知能が発展しすぎたという現象かもしれない。

そもそも、芸術とゲームの大きな違いは評価の仕方にある。ゲームというものは明確に勝敗があるが、芸術というものはその価値自体が定性的であるので、その価値は鑑賞者によっても、時代によっても変わるものであろう。いくら人工知能の作品が、定性的にというよりは何か定量的に判断できる部分において、人間による作品を上回ったとしても、人工知能による作品の魅力は多くの人にとってそれほど大きなものにはならない気がする。

結局、我々は人間である。

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