【誰かの独り言】 人生ゆえに泥酔する

社会を生きるということは、社会が用意したステレオタイプに自分を合わせるということであり、それは誰かの真似をして生きることとも言える。

誰かの真似であるならば、そこに自分なんてものは存在せず、ただの器として自分は存在し、中身は外から与えられたなにかでしかない。

つまり、頭で社会にあわせようなんて利口に考えてるうちは、自分の人生なんてものは存在しない。

それっぽく振る舞い、それっぽく話し、それっぽい役割を果たして、人生の幕を下ろす。

なんて、くだらない。

ならば頭をとっぱらって、やつらの侵入の余地を閉ざしてしまいたい。しかし、残念ながら、自分を存在させるために頭は必要だ。必要なくせに、その頭のせいで、誰かの寄生を許してしまう。

なぜ考えてしまうのだ。
なぜその結果を文字にしてしまうのだ。
思考をすればするほどステレオタイプに近づくというのに、逃れようとすればするほど文字にしたくなる。

無念だ。

だから、泥酔して頭をモヤで覆ってしまっているときくらいが、唯一、自分らしく存在できていると言えるのかもしれない。

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