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日本語の歌詞 ヨルシカ「言って」

J-popの歌詞の解説をするという授業​

今学期の授業で学生さんが取り上げた歌詞にヨルシカの「言って。」という曲がありました。

初めて聞いたときは、歌詞とは裏腹な曲調に透明でライトな声、このMVの映像と歌詞は謎かけのようでわかりにくいなと思いました。

私はJ-popに詳しい解説者ではないので、この歌詞やこのミュージシャンの背景については触れずに、純粋に日本語という観点からだけで、この曲を考えてみたいと思います。特に、この曲のわかりにくさの理由について考えてみたいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=F64yFFnZfkI

「君がいったこと」ひらがなでずらす

「言って」に続く文は「あのね、私実は気付いてるの ほら、君がいったこと」であるが、「いった」が平仮名になっている。最初はあれ?書き間違いか?と思うが、半分ぐらい過ぎたところで、「あのね、私実はわかってるの
もう君が逝ったこと」と出てきたところで、そうなのかと納得する。この暗さの原因が「彼が死んだ」からだとわかるのだ。

しかし、「ほら、君がいったこと」の「いった」は「言った」だ。「ほら」という感嘆詞は、想起を促すという意味があって、君に対して述べる文なのだから「君が言った」ことになるということは確認しなければならない。学生はここの「いった」も「逝った」と解釈している可能性があるからだ。

ついでに、学習者にこのとき確認すべきことは「いった」という言葉の辞書形は何かということだ。「言うー言った」「逝くー逝った」という活用形を確認しておくといいと思う。

「あまり考えたいと思えなくて」語順の微妙な違い

「あまり考えたくないと思って」とストレートに言うのとどこが違うのだろうか。また、この2つの表現では「あまり」にかかる言葉が違う。歌詞は「(考えたいと)あまり思えなくて」だ。「あまり~ない」という呼応がある。この点は学習者に確認が必要だ。

「あまり考えたくない/と思って」では前項も後項も意志的だ。つまり意志的に考えることを排除しようという決意(決別)を感じる。彼女の考えは「あまり考えたくない」のだ。そして、日本語では後ろに重要な成分がくるから、そう「思った」ということが大切だ。

一方、「考えたい/とあまり思えなくて」では後項は「不可能」を表し、意志性が消える。彼女の心には「考えたい/考えるべきだ」という考えがあるのだが、そう「思えない」のだ。つまり「思えない」のはある種の不可抗力で、彼女のもやもやした心のありようを表している。

つまり、彼女の心は死んだ彼とうまく決別ができず、宙ぶらりんであるのだ。それが彼女の苦しみの原因だ。

その言葉を言われたときも、気づいたんだけれど、「あまり考えたいと思えなかった」し、今になって、思い返して、気付いていたのに、何も言えなかった自分のことも「あまり考えたいと思えなかった」のではないだろうか。

隠された言葉「逝った」

「盲目的に盲動的に妄想的に生きて 衝動的な焦燥的な消極的なままじゃ駄目だったんだ」
この言葉の連なりも関係も難しく感じられる。しかし、文法的に考えると答えは明らかだ。

彼は盲目的に盲動的に妄想的に生きてどうなったのか、というのが、文法的な流れだ。つまり、盲目的に盲動的に妄想的に生きて(逝った)わけだ。「衝動的な焦燥的な消極的なままで駄目だったんだ」というのはその事態に対する私のとらえ直しだ。

歌詞はそのキーワードを敢えて省略している。それはその死をまだ受け入れていないことの表れかもしれない。

この難しい言葉の羅列は、おそらく彼の言った言葉なのだろう。

「盲目的に盲動的に妄想的に生きて」というコロケーションは一般的ではないので意訳してみる。目が見えないかのように生きたり動いたりするのは、何の疑いも持たずにいることで、それは妄想の世界に生きていることと変わらない。正しく世界を把握しているわけではないということだろう。

つまりそれでは「衝動的な焦燥的な消極的なまま」なのだ。何が正しくて何が良いかという判断をせずに、勢いで焦って、手っ取り早く生きること、それは結局、人生に対して消極的な生き方なのだ。

隠された言葉「(言って)ほしかった」

もっと ちゃんと 言って」という言い方は、本来なら目の前にいる人にお願いする言い方だ。しかし、「もう君が逝ったこと」を「私実はわかってるの」だが、「わからず屋」だ。まだその死を認められない。
忘れないようメモにしてよ 明日十時にホームで待ち合わせとかしよう」と以前のように君に語りかけるのだ。

納得できない私は「言って」という言葉を執拗に繰り返すが、「私実はわかってるの もう君が逝ったこと」から、敢えて口にしていない言葉が補われてしまう。つまり、この「言って」の後には「ほしかった」という言葉が続いているのだ。執拗に繰り返される「言って」は嘆きなのだ。

ここでも、この歌い手の心が彼の死を受け入れることができないことが、彼を死んだものとして扱う表現を回避させていると言える。

比喩を使う:牡丹は散っても花だ 夏が去っても追慕は切だ

これは「~ても」という文法を考える。「牡丹は散ったら、もうそれは花ではない」という前提があるが、「~ても」はその前提を否定する。「牡丹は散っても花であることは変わらない」牡丹とはもちろん君のことだ。

「夏が去ったら、追慕は薄れていくものだ」という前提を否定して、「夏が去っても追慕はいつまでも切ない(切ることができない)」のだ。「切」という言い方は規範的ではないが、ここでは意訳する。自分の君に対する思いは時間が経っても消えていかないことを述べている。

本質的なことに答えることの難しさ

何を言ってほしかったのかと言えば、私もうっすら気づいていることだけれど、もっとはっきり言ってくれれば、君を死なせずにいられたかもしれない。その後悔と嘆きでこの曲は溢れている。

けれど、言葉で大切なことを伝えることは難しい。「生きる」という単純でいて本質的な問いに答えるのは難しい。それは例えば「ねえ、空が青いのって どうやって伝えればいいんだろうね」と君に語りかけ、「夜の雲が高いのってどうすれば君もわかるんだろう」という自問にも表れている。

君は自分を殺してしまったけれど、「全部、全部無駄じゃなかったって言うから」というフレーズにはその人生が無駄なものだったとは言えないと君には伝えたいという思いが込められている。








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