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片付けられないのは、向き合うのに勇気が必要だから

たまたま、色々な巡り合わせがあり、人に汚部屋を作ったり、片付けられなかった理由ってありますか?と聞かれた。この記事を見たからだそうだ

僕は自他ともに認める汚部屋出身なのである。

そこで僕が話したことにより「片付け方を知らなかった」ということに関して興味深かったと相手に返されたのが印象的だった。

学校で片付けができていたのはルールが徹底されており、最後どういう状態が正しいか理解出来たから。

家で片付けができなかったのは片付けろ、と言われるだけで基準が無かったから。やり方を教えてもらうことも、一緒にやることも無かった。自分の為に掃除をするのではなく、他人の為に掃除をするのだと思っていた部分も大きい。

また、勿体ないとか、勝手に𓏸𓏸するな、みたいなことを従順に守った結果でもある。自分は部屋が寒い事も布団が薄い事も言い出せず上着を着て寝ていた程、その状況は当たり前で、耐えなければならないのだ、と思っていた。

結果的に
他人の想いがある物に対して何一つ捨てられなくなり「まだ使える」と一生ゴミを抱かえ続ける人間のまま、家を出た。

そこから他人からの物やまだ使えるけど要らない物を捨てる事ができるようになるまで散々時間がかかった。あれは呪いだと思う。現代には物が溢れ過ぎている。

捨てるというのはエネルギーが必要だ。ある程度元気でないと出来ない。

今でも汚れてしまうから、そろそろ部屋が汚れない仕組みを作らないとなぁと考え中だ。
一応人を定期的に呼ぶことで部屋は何とか保っているが、呼ばなければ秒で散らかるので、散らない習慣を作らなければなと思う。出したら片付ける、脱ぎちらかさない、のもっと手前で何かが必要なんだと思う。

習慣は人間を作るし、判断することを無意識にさせ、人を楽にする。

人間身についた習慣はその倍の時間をかけないと変えられないそうだ。
僕は生まれて2/3年はゴミ屋敷生活だったのだから、今後少しずつ片付いた部屋の習慣を身につけていこうと思う。

自分が家を片付けられない人間なのだと、これからも自覚して行動したい。

そう言い聞かせないと、また要らないものが増えていくから。頑張る。
文字は疲れると読めないし、物は考えないととりあえず置いといてしまうから、置いとかなきゃならないほど疲れないように、したいな

もう汚いなと思いながら生活するのもあまりしたくないし、もし今自分が死んだらこの部屋を家族が片付けるんだと思うと申し訳がないから

やっと最近、自分は家を片付けるのが、物を捨てるのが苦手だったんだと理解したというか、異常な程周りに縛られていたんだとということを自覚した。

他人のことを考えて行動してしまうのは癖なのだが、他人のことを考え過ぎて自分が何一つモノが捨てられなくなっていたのを、この数年自覚した。明らかにゴミだろうと分かるものすら、捨てられなかった人間なのだと常に念じながら頑張って捨てていきたい。

この部屋は、自分のものなのだから。
何を残して何を捨てるのかは本来自分が決めていい筈なので、他人に遠慮して捨てずにいるのは間違っている。自分にとって要らないものは、要らないものだ。思い出とさようならする様な気になるが、実際そうで。

貰ったけど出てないな、もう着ないけど高かったな、みたいな負の記憶を常に呼び起こしてしまう位なら、売るか譲るか捨てた方が物にとっても自分にとっても幸せだ。

送った本人も、嫌な気持ちで置いて置かれてるなんて思いたくないだろうしね。

少しずつ、少しずつ。過去の思い出と、過去好きだったもの達と、さようならをしよう。
新しいもの達と出会う為に。これからの自分にとって必要な物に出会える様に。

いつか突然誰かが来てもいらっしゃいと笑顔で迎えられる家にしたい。
いつか部屋を見ても辛くない様に、していきたい。

だからこれからも自分の染み付いた汚部屋行動と向き合う。辛いけれど、向き合いたくないけれど、これ以上自分を責め立てるのは嫌だから、向き合わなければならない。

みんなとお別れして、新しい自分になりたいから

でも、全部捨てるんじゃない。大好きなものや、まだ辛くて捨てられないものは残そう。いつか、きっと向き合える日が来ると思うから。

1つずつ、向き合っていこう

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