誤用と知れど、酸いも甘いも「噛みしめて」いたい。
にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。これを書く時はいつだって真夜中なのである。
酸いも甘いも噛み分ける。
人生の良いことも悪いことも、なんもかんも知っているという慣用句だ。
私はまだ、噛み分けられるほど大人じゃない。百戦錬磨でもない。ゆえに、私は日々これを噛みしめている。
酸いも甘いも噛みしめる。
この場合の噛みしめるは、肝に銘じるという意味ではなく、字の如く、もぐもぐと良く噛んで味わうこと。
すっぱい!と口をすぼめながら、もぐもぐ。
あま〜い!と眉尻を下げながら、もぐもぐ。
清濁併せ呑む、という言葉もある。
酸いも甘いも噛みしめるは、これに近いのである。
冒頭に書いた通り、慣用句としては「酸いも甘いも噛み分ける」だ。
噛みしめるは誤用。私はこれを好んで、そして自分なりに理由を持って使っている。ちなみに友人は「嗅ぎ分ける」という謎の誤用をしていて、酸いも甘いも…確かに臭うか、と笑ったことがある。
話を戻そう。
私は、酸いも甘いも噛みしめるのが好きなのだ。
清濁併せ呑むのが私の信条でもあり、人生を楽しむ醍醐味でもあると思っている。
そりゃ綺麗なものだけ見ていられたら、どんなに心地よいか。
甘いものだけペロペロ舐めていられたら、どんなに楽か。
でも知っている。
この世は、そんなに綺麗じゃないってこと。
酸っぱくて、濁って汚くて、臭くて、不味くてみたいなもんが混ざりあっているのが常だと、知っている。
そう知ってしまってからというもの、綺麗なもの「だけ」を見てはいられなくなってしまった。それも悲しいくらいに早々と。
知っていながらにして、酸っぱく濁ったそれを否定してしまうのは、見ないふりしてしまうのは、現実逃避しているだけな気がするのだ。
だから全部呑む。
つまり、全部受け入れてしまう。とりあえず一回、受け入れてみる。もはやお試し的なノリ。
不味くて吐き出すこともありますし、腹を下すこともあります。こんなもん二度と食わねぇ!ってキレることもありますよ。
そうして酸っぱく汚れた世界を味わいながらも尚、「それでも綺麗な世界が見たいのだ」と、綺麗事を並べていたいのです。
綺麗なものしかないのよ、っていうお花畑じゃなくて。花畑の土壌にある、肥料となった糞尿や虫の死骸をも認める。
花は花だけあっても、綺麗になんか咲かないのだよ。
土が肥えてないと綺麗な花は咲きはしない。土も水も、肥料(という名の汚物)も必要なわけですよ。
汚れた世界の中にあるから、綺麗なんだ。
酸っぱくて苦くて不味くて、臭くて濁った世界を知っているから、綺麗に見えるだけなんだ。きっと。