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ただその人だけを褒めればいいのに。

お久しぶりです。
魔女っ子にゃんちーです。(肩書き、どうした!?)
お友達に手紙を書いたときに閃いた肩書きっぽいものなのですが、語呂が良くて気に入ってしまったのでnoteでも使ってみようと思いました。完全にノリです。
相変わらず星読みもしています。鑑定はしております。星空通信は再開の予定は未定だけれども。
前回のnoteから、3ヶ月くらい経っていました。ワンシーズン過ぎている。恐ろしや。

noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。
(キーボード打ってるわけだし)
脳内垂れ流し備忘録とか私見とかそういう類のものになります。


ただ単に、俺がスゴイのだっ!

釣りみたいな小見出しになってしまったのですが、別に私はすごいんだぞと言いたいわけではないです。記事タイトルの通りで、褒める時って、ただ単にその人のことだけを褒めればいいよね、というのが結論です。
俺、まだ自分で自分のことを凄いと言えるほどメンタル強くなれていないっす。日々精進。

さて唐突ですが、褒めるのって難しくないですか?

少なくとも私は難しいと感じます。考えれば考えるほど、褒めるという行為のハードルが高くなっていく日々です。ディスるほうが圧倒的に簡単、チョロいと思うほどには、褒めることの難しさを痛感しています。

と同時に昔から褒められると、時々どうしようもなくモヤッと、イラッとすることがありました。褒め言葉を素直に受け取れないのではなく、そういう時は決まって、褒められているようで実はそうではないような気がしていたからです。

例えば私の発言や考え方に対して、「あの人も同じこと言ってた!」とか「誰々と同じだ!」と言われてしまう。私が人からかけてもらう褒め言葉の中で、圧倒的にモヤつくのがこれなのです。要するに、誰々と同じことを言っているにゃんちーは凄いね!という褒められ方をしているのですが、これがバチくそにモヤる。ありがとうと言いつつ、絶対に顔が引き攣っているやつです。私の表情筋、脊髄反射なもので。

きっと私も同じような褒め方をしたことがあるはずなので、本当に人のことをとやかく言えない。けれど、何にモヤッとしてイラッとしていたのかが紐解けた時、もし私がこうやって他人を褒めていたのだとしたら糞だなと思いました。脳内で盛大にブーイング、自分に対して。正直、だいぶ反省した。以後、気をつける。マジで。

人の意見、第三者を使って答えあわせしちゃうの?

私がよくイラつくのは「誰々も同じこと言ってた!」というやつなのですが、これ、暗に「だからアナタは正解」と言われている気がしてしまう。誰々さんが同じことを言っていたという謎の根拠により、他人から私の発言が正しい/正しくないとジャッジされているように感じてしまう。

分かっているのだ、褒めているつもりだということは!
けれど、この褒めパターンを繰り返された時、私は「だったらその人(誰々さんとやら)の話だけを聞いていればいいじゃんない」と言ってしまったことがあります。わざわざ私と話す意味、私の意見や考え方を聞く意味ナニ?なくない?と思ってしまった。私の意見を、全くの他人を引っ張り出してきて、自分の意見も持たぬお主がなにゆえ正誤判断なんぞしとるんじゃい!?と思ったわけです。

私が考え抜いてその答えに辿りついた、その答えがたまたま誰かと同じだった、ただそれだけのこと。ただの事実。
事実を事実のままに褒めればいいと思う。けれどこの場合、それは同じ答えに辿り着いた誰かがすでに凄い人だという前提のもとで褒められているのであって、私の何かが褒められているわけではない。私は何も褒められていないので、当然リアクションに困る。だがしかし、相手は私を褒めているつもりなわけです。すると私はありがとうと言わざるを得ない。何をだよと思いながら言う、「ありがとう。」

自分でももの凄く厄介な考え方をしていて、面倒なことを書いているという自覚はあります。負けずに続けます。

誰かを引き合いに出された時、それは褒め言葉なのか?

あの人や誰々と、褒め言葉として引き合いに出される人たちというのは、著名人など、いわば上位存在。もちろん私も知っている人があてがわれる場合もある。けれどそれは私にとっての上位存在ではなく、私を褒めてくれている人にとって、私よりも引き合いに出された誰かさんが上位存在なだけなのです。
誰かを引き合いに出されたこの瞬間、私はその誰かさんの下に位置付けられれてしまう。褒められているはずなのに、実は下げられているんだと思ってしまった。被害妄想かもしれません。私はそう感じるというだけの話です。

でも、こうも思ったのです。
「その比較対象、というか比較そのものが、いるのか?」と。

私の結論、「いらない」です。
いや、いらんくね?だって私はどこまでいっても私でしかないし、誰かの真似でも二番煎じでもないし、純粋に私のことだけ褒めてくれよ!って思いました。
比較することが問題なのではなく、比較することで序列をつけていることが問題だと感じています。そして褒めている側の超個人的な順位表を、相手に感じさせてしまう、それは果たしてどうなんのだろうな……と思うのです。それを感じ取ってしまうというのは、気持ちの良いものではないでしょう。だって、誰々さんほどじゃないけどな!と言われているのと同じでしょ?実際にそう言われたら、その一言いる!?ってなるじゃん。言わないだけで、そう伝わってますけど?と、私は思うね。思っちゃうもんねーだっ。

勿論、引き合いに出された誰かさんが、例えば私の憧れの人(いないけど笑)だった場合、それはとても嬉しいかもしれません。
ただその場合、その誰かさんは褒められる側の人にとって喜ばしい人でなければ成立しません。誰を引き合いに出したら相手が喜ぶのか、それが分かっている間柄だからこそ成せる技なのであって、なんとも微妙な距離感の関係において、この手は使えないだろうと思います。この手を使えるようになるには、まず相手のことをよく知らなければならないのだから。

たまにありませんか?「誰々みたいに美人orイケメンだね!」と言われて、褒められた側にとってその誰々さんが美人?そうか?みたいな場合、つまり自分は微妙ってことか、みたいに意訳されて微妙な反応をしてしまう。それと同じです。この時、「せっかく褒めてやったのに」と思ってしまうとしたら、いささか傲慢だなと思います。
褒められる側にとって微妙な人を引き合いにだすとせっかくの褒め言葉も、微妙なものになってしまうのです。解釈の齟齬といえばそうですが、齟齬が生じないように伝えないと届くものも届かない。それは伝える側の配慮であり努力義務だと思っています。当然、受け取り側も、どういう意味だ?と歩み寄る、理解しようとする努力義務があります。でもやっぱり、個人的な美人ランキングで言い表されても、知らんがなってなるよね。私の美人ランキングとは違うけど?ってなるしね。

だから褒め言葉は、純粋に事実だけを褒めればいいのにな、その人だけを褒めればいいのになと、私は思います。

でもそれが、とっても難しい。

その人だけを見る。事実だけを見る。それがとっても難しい。何が難しいって、何かと比較して順位づけすることなく、ただ純粋にその人のことを見つめるというのは、なかなかに根気のいることだから。
誰かや何かを引き合いに出すことなくその人自身を褒めるって、「ちゃんとあなたを見ているよ」と言っているのと同じな気がします。

少なくとも、自分にとって大事な人、好きな人には、その根気を持ち続けていたいなと思います。私にとって大事な人と一括りにしてしまっても、一人一人が唯一無二の存在なのだから、純粋に個々人の凄さや素敵さを理解できる私でいたいのだ!まごうことなきその人輝きを見つけられる私でいたいです、誰に対しても。


以上、おしまい!

最後まで読んでくださってありがとうございます! もしよろしければ、また遊びに来てください🐱❤️ いただいたサポートは精進すべく勉強代・書籍代にあてさせていただきます。noteなどの発信や鑑定を通して還元していく所存です。押忍!