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「老人と海」アーネスト・ヘミングウェイ 読書感想

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初版 1966年6月 新潮文庫 (原作出版1952年)

あらすじ
キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。4日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく…。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う。
(アマゾン商品紹介より)

名前は知ってたけど読んだことなかったヘミングウェイ。
もちろん本作もタイトルとストーリーはなんとなく知ってたけど初読みです。
こんなにペラペラだったとは。(内容じゃなくて本の厚みの事)
ページにして116ページ。
その割には時間かかったかかった・・・
話はあらすじの通りシンプル。ほとんど老人と海原しか出てこない。
ハバナの大海原。心もとない小舟に老人一人。
風はなく穏やか。なにもない。孤独。
ブツブツ独り言を言いながら自分を鼓舞し、沖へ沖へと大物求めて漂流すること2日。
そしてついに捕らえる大魚。マカジキ。あの松方さんが追い求めていたブルーマーリンってやつか?
老体ではすぐに釣りあげられない。大魚が疲れるのを待つ持久戦。
なんと二日間。仕掛けのロープを手にしたまま、老体と睡魔と空腹とも戦いながら大魚と老人の根競べ。ああ、これは松方さん的なリールでの釣りの話ではありません。あくまで仕掛け綱と網での漁。だからじかに綱を素手で持ち、体に巻き付けて戦っているわけです。
やっとこさ捕まえた大魚。大きすぎて船に乗せられず。
船に括り付けて、ひきずって帰ったら。サメに襲われて。
サメも殺しまくるんだけど、結局、身は全部食べられて。
頭と骨と尾びれだけになったマカジキを引きずって帰港するという。
踏んだり蹴ったりのお話。
それはある程度分かっていたので、いったいそこから
ノーベル文学賞作家ヘミングウェイは何を描いているのか?
という一点の興味を糧に読みだしたわけです。
結論から言うとよくわかりませんでした。

読む前の予想としては、まあ、いわいる山岳小説のような。
あるいはキャッチアンドリリースを美学とするフィッシャーマン(釣りキチ)
のような、なんの生産性もなくても、結果よりも過程を重視する生き方の哲学を描いているのかな・・・と。
しかしそれはどうも違うのです。
この老人は趣味の釣り人ではなく、プロの漁師で、本当に生活のために魚を捕ろうとしていたわけで、過程や経過ではなく結果を追い求めていたのです。
しかしそれは徒労に終わり・・。
骨だけになったマカジキを見て老人は心底後悔するわけです。
こんなことなら初めから漁になど出なければよかったと。
カジキやサメに対してただ無益な殺生をしてしまったと本気で後悔し、
老体で二日間戦った過程を美化するような事はなく
ただただ疲労こんぱいの中で眠りにつき、ライオンの夢をみて終わり。
元弟子のマノーリンだけがおじいさんは負けてないよ。
また一緒に船に乗るよ!
ダメだ俺には運がない。
運なら俺が持っていくよ!
というくだりが何を意味しているのか・・・。
他の人の解説を読んでみると、まあ、みんないろんなこと言っています。
一番多いのが元弟子マノーリンとの絆の話だとか、生きた証の継承の話だとか。
ヘミングウェイ自身の老いに抵抗してもがく話だとか。
キリスト教的な復活、回帰、大罪、赦し、継承の話だとか。
すべて夢オチだとか・・・。
それだけはっきりしたことはあまり描かず、結論も言わず。
大きな幅をもった問題提起型の作品ではあるのでしょう。

そんな中、僕がなんとなく感じたのは
生きるために他者を殺す事に対しての是非を問うているのではないか・・・と。
それはある意味考えてはいけないパンドラの箱のようなもので。
ヘミングウェイはそれを開きかけていたのではないかと・・・。
人は生きるために豚を殺し牛を殺し鳥を殺し魚を殺す。
動物たちだって生きるために弱いものを殺して食う。
それが自然の摂理なのだと言い聞かせて・・。
しかし本当に自分に魚を殺して生きる価値があるのか・・・と
牛や魚は殺していいのに人間殺すのはなぜダメなんじゃ。

人間はそんなに偉いんか。
なんて、大量虐殺者の思想のようなところに落ちかかって・・・。
やっぱりその答えはこの作品からも見出せませんでしたが・・・。
マノーリンの言葉とライオンの夢は・・・
なんやかんや言っても人間は偉いんじゃ・・・と
人間を肯定しているのかな・・。

数年おきに読み返し続けていきたい作品になりました。

2020・9・23