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蝶よ花よと、ひとりっ子

案外、ひとりっ子は幸せなことなのかもしれないなあ。

息子の満面の笑みを見ながら、ふと、私はそう思った。

私は、ひとりっ子は「普通じゃないこと」で、「不幸なこと」だと思っていた。

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今となってみれば、いつもひとりっ子だと言えば「寂しいでしょ?」と同情されたように聞かれたから、私はひとりっ子は「寂しいこと」で、それは人から同情されるような不幸なことだと思うようになったのだと思う。

そんなふうに言われるまでは、私は生まれたときからひとりっ子だったのだから、それが「普通」で、寂しいことでもなんでもなかったのに。

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小学生の頃、周りにひとりっ子は私しかいなかったように思う。
そして、小学生になったあたりから、ひとりっ子と言えば、めずらしがられたし、必ずといっていいほど、「寂しくない?」と聞かれるようになった。
小学生の私にとって、人と違うということは悪いことだと思っていたし、「何でみんな兄弟姉妹がいる家に生まれているのに、ひとりっ子として生まれたのが私だったんだろう。何で私は普通じゃないんだろう。」と悩みの1つにもなっていた。

しかし、実際に、両親との暮らしが寂しかったり、不幸だったりしたのかと問われれば、それは確実にノーと言える。

私はいつも両親と一緒だった。
寝るときも私を真ん中にして3人で川の字になって寝て、毎晩ご飯も一緒に食べて、休みの日も一緒に出かけたりして。
もちろん友達と遊んだりもしていたけれど、今、小学生の頃を振り返ると、両親と一緒に遊んだことばかりが思い出されるのだ。

自然や生き物が好きな父の影響で、休みの日には必ず車でどこかに出かけて、山で昆虫採集をしたり、川で釣りをしたり、海で泳いだり、近くの祖母の家では犬を、我が家では鳥や魚や昆虫を飼って、いろんな経験をして、豊かな毎日を過ごした。

私はいつもリビングで勉強をしていて、分からないことがあったらすぐに両親に聞いて教えてもらって、夏休みの自由研究のためにはいろんなところに連れて行ってくれて、雨が降れば学校まで車で迎えに来てくれて、長期休暇はほとんど仕事を休んでそばにいてくれて、自営業だった両親の生活の中心にはいつも私がいて、私のために惜しみない愛情を注いでくれて、私は何不自由ない生活をさせてもらった。

そんな私の両親を見て、「過保護」だと批判されたりもしたほどだった。

こんなふうに育った私は、孤独なんて1秒も感じたことなんてなかったし、寂しいなんて思ったことはたったの一度もなかった。

だから、「私だけが兄弟姉妹がいない」と悩んだのは、ただただ「普通」になりたかっただけで、実際に寂しいから兄弟姉妹が欲しいとか、そういうわけではなかったのだ。

また、自営業だった我が家は、決して裕福とはいえなかったけれど、それでも、やりたい習い事はさせてもらったし、中学受験塾にはじまり、国立中学、私立高校へと希望の進路に進むこともできた。それは、やはり、ひとりっ子だったからこそである。

もし私に兄弟姉妹がいたら、2人以上の子どもに高額な教育資金をかけられるだけの経済状況ではなかったから、きっと私の進路の希望は叶わなかったと思う。

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それから、高校3年間を寮で暮らし、親元から離れていた私は、高校卒業後は、その反動からか、両親と一緒に暮らしたいとの思いが強くなり、夫と同居するまで、ずっと両親と一緒に暮らした。

ただ、私もいつまでも実家暮らしでいることを全く気に留めなかったかといえばそうではなくて、社会人になって数年が経った頃、同い年の従兄妹に「そろそろ一人暮らしでもして自立した方がいいかな?」と相談するくらいには気にしていた。
このとき、3人姉弟の従兄妹は「いずれ結婚すれば、親元を離れて暮らすことになるんだし、ひとりっ子なんだから、親元で暮らすということも親孝行だと思うよ。」と言った。
同い年で近所に住んでいたから、子どもの頃はよく一緒に遊んでいて、私の両親のこともよく知っている従兄妹がそう言ってくれたことで、それもそうだなと思えて、私は結婚するまでは実家暮らしをすると決めた。

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私は、小学2年生頃から医師になりたいと思いはじめ、そのためにずっと勉強を頑張ってきたにもかかわらず、浪人中に本当に医師になりたいのか分からなくなってしまい、そんなときに行った社会科見学で、私が本当にやりたいことはこれだ!と衝撃を受けて、大学では文系へと進んだ。
両親には、これまで医師になりたいと高額な学費を支払ってもらってきたにもかかわらず、それが無駄になってしまうことを申し訳なく思ったが、両親は、私の決断を尊重してくれて、応援してくれた。
そして、専攻した学問に魅了された私は、大学と大学以外の場所でも同じ学問の勉強をしていて、とにかく勉強をすることが楽しくて仕方なかった。

中学で友達と遊ぶことの楽しさを覚えて、中学時代は友達と遊んでばかりいたし、高校では寮生活だったから、24時間同級生と一緒にいなくてはいけなかったし、それは楽しい反面、疲れもした。
いつも友達と一緒にいたこの6年間は、元々人付き合いが得意ではなかった私にとって、なんだか自分らしさを見失っていたようにすら思えた。
だから、私は、大学では友達付き合いよりも勉強に専念したかった。

大学で文字どおり「勉強しかしなかった」私は、おかげで首席で卒業することができた。
首席卒業を目指していたわけでもなく、結果的にそうなったに過ぎないし、首席で卒業したからといって何の役にも立たなかったけれど、それでも、大学で「勉強しかしなかった」という変わり者の私が肯定されたような気持ちにはなれたし、大学在学中から今でも、大学時代に学んだことを活かして、同じ分野の仕事ができているのだから、やっぱり「勉強しかしなかった」ことは、私の人生において良かったことといえる。

私が大学時代に「勉強しかしなかった」と言えるのも、私が勉強に専念できる環境を作ってくれた両親のおかげに他ならないし、そもそも、私が勉強に専念できたのは、友達と遊ばなくても、恋人がいなくても、寂しいとすら思わせない両親がいたからだ。
両親とは友達以上に何でも話せたし、一緒にいて楽しくもあった。
それはやっぱり私がひとりっ子として育って、物心がついたときから、両親が1番の話し相手であり、1番の遊び相手だったからだ。

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社会人になってからも、両親とともに過ごせたことは、私にとっては良い面ばかりだった。私の職場への通勤の便に合わせて、両親も一緒に引越しまでしてくれたのだが、これもひとりっ子だったからこそである。

仕事で嫌なことがあっても、家に帰って愚痴れば、また明日から頑張ろうと思えたし、仕事で良いことがあったときも、家に帰って両親に報告すれば、心から喜んでくれて、頑張って良かったな、と思えた。おかげで、私はいつも1人じゃないと思えたのだ。

そして、両親は私のことを心配こそすれ、私に干渉してくることはなかった。
だから、あらかじめ伝えておけば、あとは、私が何時に帰って来ようと何日も旅行に行こうと自由だったから、実家暮らしの窮屈さのようなものも一切感じなかったのだ。

また、休みの日には、子どもの頃からそうしていたように、3人で車でドライブがてら遠出したりして、車の中では、私の好きなミスチルやB'zの音楽を聴きながら、いろんな話をして、それは私にとって1番のリフレッシュだった。
よく両親とショッピングモールに出かけたりもしたし、同じ写真の趣味を持つ父と2人で出かけることもよくあった。
先の従兄妹のお母さんからは「今でも一緒に出かけられていいねえ。うちは休みの日は家に寄りつきもしないよ。」と言われたと両親が話していた。
これもひとりっ子ならではのことだったのだろう。

そんな私はやっぱり仕事にも専念できて、職場でも将来を期待されるようにまでなった。

この頃、休みの日に家のソファーでうたた寝をしていたら、酔った父が母に「俺たちの全く知らない分野で活躍していて本当にすごい。俺たちの子どもにしては良くできたもんだ。」と言っているのが聞こえてきた。
そのまま寝たふりをして聞いていないふりをしていたけれど、私の成功は紛れもなく両親のおかげだったから、心の中で、「2人の子どもだからこそで、2人のおかげなのに。」と思った。
でも、恥ずかしくて、両親には伝えられなかった。

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社会人になって数年が経った頃、出会ったばかりで私のことをさほど知らない人から「蝶よ花よと育てられたんでしょ?」と言われた。

当時の私は「蝶よ花よ」の意味が分からなかったから、家に帰ってから、父に「蝶よ花よと育てられたんでしょ?って聞かれたけどどういうこと?」と尋ねたら、「そのとおりだね。」と言われた。

私がどうやって育ったかなんて知らない、「今の私」しか知らない人から見ても、私は、大切に大切に育てられたということが分かったのだろう。

また、同じ頃、職場の飲み会の席で、60代後半の男性から「すくすく育ったんだねえ。」と言われた長身の私は、てっきり身長のことだと思い、「背だけは伸びたんですよ。」と答えたところ、「違う違う。真っ直ぐに育ってるねえ。」と言われた。

その男性がこんなふうに評した理由は、たぶん、当時の職場では、「偉い人」が「黒を白」と言えば、それが正解であって、それを間違っても「いやいや、黒ですよ。」などと、決して言ってはいけないとの暗黙のルールがあった。
でも、私は、子どもの頃から曲がったことが大嫌いだったから、学校の先生や大人に対してでも、「間違っていることは間違っていると言うべき」という信念を持っていたし、実際にそうしていた。
だから、私は、職場でも「偉い人」にだって間違っているときは間違っていると言っていたし、「偉い人」にも遠慮はしなかったし、媚びたりもしなかった。
私にとっては、組織でうまくやっていくことよりも、自分の正義を貫くことの方がよほど大事だった。

そんな私の言動が先の評価に行き着いたのだと思われる。

また、1番仲の良かった同期からも「真っ直ぐに、真摯に、芯のある生き方をしている。」と言われたりもした。

私がそんなふうにいられたのは、今となってみれば、それは、私は、世界が全体敵になったとしても、両親だけは私の味方でいてくれると、子どもの頃から漠然と感じていたからだと思う。

私が何をしても、しなくても、両親は私の味方でいてくれる、ということは、また、そんな両親を悲しませるようなことはできないという思いにも繋がった。

こんなに頑張っているのに、何で報われないんだろう、と涙した日は数えられないし、何もかもうまくいかなくて世界が敵に見えたときもあった。腐りかけたことも、道を踏み外しそうになったこともあった。

でも、それでも、腐らずに、道を踏み外さずに、愚直に生きてこられたのは、両親を悲しませるようなことだけはできないと思ったからだ。

人に嫌われたり、傷つけられたり、そんなときも、私は両親に大切に育てられたんだから、誰も私を傷つけさせないと思って立ち直れたし、人生を諦めそうになったときも、私は両親に大切に育てられたんだから、私だって私を傷つけることは許されないと思えた。

今の私があるのは、紛れもなく、両親のおかげで、そして、それは、ひとりっ子として、蝶よ花よと育てられたからに他ならないのだ。

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そして、両親は今でも一緒に暮らしている。

今では、1歳の息子を、蝶よ花よと育ててくれている。

人を褒めたりなんてめったにしないシャイな父も、毎日、息子に「可愛いねえ。何でこんなに可愛いの?」と目尻を下げて聞くくらい、両親は、息子を私以上に寵愛している。

息子も4人の大人たちからの寵愛を受けて、眉間に皺を寄せて、目を思いっきり細めて、楽しくてたまらないって感じでくしゃくしゃな顔で笑って、毎日、寝かせようとすると、まだ寝ないと走って逃げていくほどに楽しい毎日を送っているようだ。

いつも我が家の中心には息子がいて、大人たちが、息子の一挙手一投足に「可愛い」「すごい」「天才だ」などと惜しみない賞賛を送っている。

そんな息子の姿を見ていたら、「案外、ひとりっ子は幸せなことなのかもしれないなあ。」と、ふと、思った。

私はこれだけ両親に大切に育てられながらも、心のどこかに「ひとりっ子は不幸なこと」という意識が刷り込まれていたし、だからこそ、私は子どもは2人以上産む!とずっと思っていたし、言い続けてきたのだけど、最近、息子を見ていると、私自身のことさえも「案外、ひとりっ子で良かったのかもしれないなあ。」と思うようになってきたのだ。

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もし、今、私の目の前に、かつての私のように、「ひとりっ子」ということについて悩んでいる人がいたら

「ひとりっ子は、不幸なことなんかじゃなくて、むしろ、幸運なことなんだよ。」

今の私だったら、きっと、そう言えると思う。

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この記事は、リコさんの「素敵な一人っ子エピソード」に向けて書いたものです。




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