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変わらない山と変わっていく私

九州で生まれて子ども時代を過ごした私にとって、山と言えば、阿蘇山だった。

私が初めて阿蘇山に行ったのは母のお腹の中にいるときで、そのとき、母はもう一目で分かるほど「妊婦」だったのに、一緒に行った父方の祖父母は母が妊娠していることに気付かなかったという笑い話があり、そのときの写真も残っているので、私には記憶がないとは言え、私の人生における最初の阿蘇山エピソードはこれだった。

そして、私が物心ついてからは、遠出と言えば、阿蘇山だった。

そんな私は、阿蘇山のあの雄大な景色でさえも、見慣れた「いつもの景色」となってしまい、その景色が綺麗だとかそういった感情は持てず、出店で売っている焼きとうもろこしと噴火口を見るのが楽しみだった。     

加えて、画家だった祖父もまた阿蘇山が好きで、阿蘇山の絵を多数描いており、家には阿蘇山の絵がたくさんあったから、阿蘇山に行かずとも、毎日のように阿蘇山の景色は目にしていた。

そんな私にとって、阿蘇山は特別な山というよりも、山と言えば阿蘇山だよね、というくらい身近な山だった。

そうやって小学生くらいまではよく遊びに行っていた阿蘇山も、中学生ともなれば、休みの日は部活動や友達と遊ぶことで忙しく、両親と出かけるなんてこともすっかり減ってしまい、中学生のときに阿蘇山に行ったのは記憶の限りでは2度だけだったと思う。1度は、従兄弟家族と1泊で行ったが、そのときの思い出と言えば、泊まったホテルの夕食がステーキ食べ放題で、大食いの記録がステーキ5枚だったが、私も5枚までしか食べられず、あと1枚で新記録だったのに、と悔しかったということだ。もう1度は、祖父の描いた絵が飾ってあるホテルに両親と宿泊し、朝起きたら銀世界という印象深い旅行だったが、銀世界となった阿蘇山を見てもやっぱり景色に感動するなんてことはなかった。

それから私も高校生になり、高校は寮に入っていたから、なおさら両親と出かけることはほとんどなくなっていたが、あるとき、急に阿蘇山に行きたくなった。そのとき私には大きな大きな悩みがあって、辛い思いをしていたことは覚えているが、具体的な悩みの中身は覚えていない。高校生のときは苦悩が多かったから、そのときにどの悩みを抱えていたか思い出せないのだ。

そうして、久しぶりに両親と阿蘇山に行った。

そこで見た阿蘇山の雄大な景色が今も目に焼き付いている。いや、何度も何度も同じ景色を見ていたはずなのに、むしろ、そのときに見た阿蘇山しか思い出せない。

そのとき、生まれて初めて、阿蘇山の景色に感動したのだ。

そして、「阿蘇山はずっと変わらずにここにあるのに、変わってしまったのは私の方だ」と思ったことを、あれから15年程経った今でもはっきりと覚えている。順風満帆で自分に自信があった中学生までとは違い、高校で人生で初めてつまずき、完全に自信を喪失し、生きることにやる気を失っていたあの頃、私は、これまでとはまるで世界が変わってしまったように感じていた。

しかし、変わったのは世界ではなく、自分の方だ、ということに、物心つく前から見ていた阿蘇山を見て、ハッと気付いたのだ。これまでも同じ阿蘇山を見ていたはずなのに、阿蘇山の景色に感動した私は、阿蘇山ですら、これまでとは違った景色に見えていた。でも、阿蘇山は変わらずにずっとここにあるのだ。自分が変われば、見える景色も変わるのだ、ということに気付かされた瞬間だった。

それから一度も阿蘇山には行っていない。高校卒業後、九州を出たからだ。

阿蘇山に初めて感動した高校生の頃からすると、また私はだいぶ変わった。

あれからたくさんの挫折も経験したし、報われた努力もあれば、報われなかった努力もあった。嬉し涙を流した日もあれば、東京の満員電車に揺られ、誰にもバレないように悔し泣きした日もあった。いろいろな人と出会い、別れ、いろいろな経験をした。

高校生という女子から、成人して女性になり、結婚して既婚女性になり、子どもが生まれて母にもなった。

今、阿蘇山を見たら、どんなふうに見えるのだろう。

そして、これからさらに人生を歩み、私が祖母になったときにはどんなふうに見えるのだろう。

変わらない山と変わっていく私。

今は遠く離れていても阿蘇山は私の心のふるさとだ。

いつの日かきっとまた会いに行きたい。子どもだった私が子どもを連れて。お腹の中にいた私がおばあちゃんになって。そのときも、阿蘇山は、変わらずそこにいて、私を静かに迎えてくれるだろう。

※写真は阿蘇山ではなく、谷川岳の写真です。阿蘇山には、高校生以来行っていないので、私は阿蘇山の写真を撮ったことがないのです。いつか阿蘇山の写真を撮ることが小さな夢の1つです。谷川岳についてはまた別の機会に。

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