見出し画像

友達に期待すること

『友達に期待すること』

世の中には、一般常識的に、
正しいと言われることがあります。

しかし案外、正しさというのは、
時代や環境に応じて流動的なもので、
10年前の常識が現在の非常識、
という事も大いにあります。

なので、誰かが嫌な気持ちになったとか、
被害的な思いになったという場合、
何が正しくて正しくないのか、
という事は、あまり問題ではありません。

嫌な気持ちになった人について、
その嫌な気持ちは正当なのか不当なのか、
という検証をするのは、ナンセンスです。

嫌な気持ちになったという人には、
何らかのケアが必要なのです。

血を流して倒れている人を見たら、
まず手当をする、というのが普通です。

しかし、見えない心の傷については、
即座に手当をしないことが多いのです。

手当をする前に、この人は、
傷があると思い込んでいるだけだとか、
痛がっているその人自身が悪いとか、
そんな判断を簡単にしてしまうのです。

集団の秩序を維持するために、
ルールや常識は当然必要で、
社会の中で守られている規則を、
私たちは守るように教育されています。

純粋な人ほど、正しさを重んじるのです。

しかし、正しさを重んじすぎて、
目の前で痛んでいる人の痛みには鈍感で、
正しさを振りかざすことで、相手の傷口を、
さらにこじ開けてしまう事もあります。

イエス・キリストの生涯が記されている、
福音書という書物が、聖書の中にあります。

福音書の中でしばしば話題になるのは、
パリサイ人という、
当時の社会のルールや常識を守ることを、
人々に促す人たちとの対決です。

イエス様は、ルールを守って正しくなる、
という事を人々に促すために、
この世界に来られたのではないのです。

正しくなれない私たちのために、
「友」となって下さり、
一緒に泣いたり、笑ったりすることで、
私たちの慰めや励ましとなるために、
この世界に来られたのです。

人生の中で、エラーばかり体験していても、
イエス様は共にいてくださります。

友達に期待されることを、
最大級に実践するため、
神である方は、この世界に来られました。

いつも読んでくださり、
ありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?