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オリンピック開会式と、日本の中間管理職的問題

オリンピックの開会式、どこか既視感のある、ちぐはぐな演出だと感じた人は多かったのではないか。私もそうだった。

「これは……いろんなレイヤーの上層部からの修正と指示が入り乱れ、結果的にちぐはぐになった成果物……」
「プレゼンで突然意味わからんスライドが差し込まれて、見てる側も(あっよくわからん上司からの指示で入れたんやろな)と察するが、結局なにも伝わらんやつや……」
「ここぞというときのアイドル大箱コンサートで、なぜかそのグループに明るくない大物プロデューサーが突然連れてこられてファンも誰も求めてない演出しちゃったときのアレやん………」

結局最後までいまいち盛り上がらず、何がやりたいのかわからない統一性のないシュールな虚無式典がテレビで繰り広げられていた。

一貫したコンセプトやビジョンのなさ。ショーとしてそれが一番の問題だと感じた。

全体を通した思想がない。だから個々のダンスやドローン技術のような技術の見せ場はあっても、そこから伝わるものがない。なんで日本の開会式で突然『イマジン』が流れたのか、なんで突然『ボレロ』だったのか、どこになんの意味があってその演出なのか、まったくわからなかった。誰が何がわるいというより、全体の統括するビジョンのなさが問題なのだった。

「2016年のリオ閉会式から私たちはずいぶん遠い所へ来てしまったな」と切なくなったのはいうまでもない。

(1:48:08あたりから日本のパフォーマンスみれます。しかしリオの閉会式はかっこいいな。ブラジルのサンバかっこいい)。


※ここから先さまざまな報道(注1)を読んで想像したことなので、実際の現場からしたら全然違う! ってこともあると思いますが、それでも私は書かないと考えがまとまらないので日記として考えたことを書いておきます。


で、音楽評論家の柳樂さんはこの空虚なショーを「広告の思想が入り込」んだ結果と表現していたが、とてもわかるなと感じた。というのも、広告代理店的思想とはつまり、クライアント至上主義のことだ。

広告代理店は、自分で思想を持たず、クライアントの思想を代理して世間に届けるのが仕事である。だからオリンピックも、彼らの仕事として行うならば、上層部の指示をひたすらに遂行してそれっぽく仕立てるのが仕事なのだ。それがそもそも彼らのミッションだ。しかし開会式のような国際的な場でのショーを行うとすると、当然関係するたくさんの上層部の思惑をすべて取り入れることになり、結果ちぐはぐな作品になる。

リオの閉会式がなんで優れていたのかといえば、佐々木氏や菅野氏といった広告代理店出身のディレクター以外に参加していた、椎名林檎氏やMIKIKO氏といったスタッフがアーティストで、彼女たちがいつも自分の思想(ビジョン)を届ける仕事をしているからだ。そもそも広告代理店とアーティストでは、仕事の内容が違う。そしてショーには後者の能力も必要だ。

アーティストは自分の思想を届けるのが仕事、そのアーティストの思想をいろんな人に届ける手伝いをするのが広告代理店。だから本当は、たとえば佐々木氏が広告代理店として、MIKIKO氏をはじめとするアーティストチームのクリエイティブを守りつつ、上層部と接続する仕事をしなくちゃいけなかった。と私は思う。要は、アーティスト(下請け)とオリンピック上層部(IOCや政府)の間にちゃんと立って調整する、中間管理職の仕事をする人が、広告代理店にいなくちゃいけなかった。

しかし実際に起こったのは中間管理職であるはずの電通の暴走だった。彼らは自分はビジョンを届けるアーティストではないのに、自分が将軍になるのだと勘違いして、その結果優秀なアーティストたちを遠ざけた。そして最終的にはSNSで叩かれて、中間管理職・佐々木氏は空気の圧力に負けて逃走。そりゃ空中分解するがな。

SNSを見ていると、「政府のおじいさんたちの要望が、椎名林檎たち女性アーティストの仕事を潰した」的に書かれていたが、正直どちらかというと、本当だったら中間管理職である電通が途中でMIKIKO氏の立場を奪って自分がトップにいきなり立ち、変な指示を出し始めたのがなによりよくなかったポイントではないか。と私は思ったのだ。


この、「土壇場の中間管理職の暴走→マスコミ煽って民意が煽って変な方向へ暴走+上層部がコントロールできずに戦略見失ってずるずる流される」というテーマ、実はそのまんま日本軍の構造の研究で既に指摘されているやつなのだ。まさにそうやって太平洋戦争が泥沼化していったから。本当に構造がそっくりだから、みんな、知ってほしい。

たとえば川田先生の著作が本当に面白いので読んでほしい。三巻だけでも!

ブログだったらこの記事の解説がわかりやすい。(注2)

こうみると日本には侵略戦争の一貫した戦略はなく、指導者は誰もが日米戦争に勝てないことを知っていたが、圧倒的多数の中間管理職が既得権を主張し、彼らがボトムアップで醸成した「空気」に事なかれ主義の上層部がひきずられ、ずるずると戦争に巻き込まれたのだ。

本当に!!!!!!! オリンピックの話も、戦争に巻き込まれた経緯も、そのまんまなんも変わってない!!!!!!! 進研ゼミで見たやつやん。

中間管理職の暴走、あと民意の暴走による辞任で責任逃れ、ダメ、絶対……。


戦争とオリンピックの開会式だったらかかってる命の重みが違う、安易に重ねるな、と言われるかもしれない。でも私は、今はオリンピックで済んでるけど、また同じことが繰り返されるんだったら今度は開会式じゃ済まないよ~と思うのだ。オリンピックで済んでるうちに指摘したいよ。(個人的には、本で読んでいたあれこれがオリンピックという一つの大きなイベントを通して、「現実ではこんな感じで進むのか……」と分かってものすごく勉強になったのだが)。

歴史は常に繰り返す。私たちは失敗した歴史から学ぶしかない。

というわけで今回のオリンピックやコロナ対策と同じような空気漂う日本の戦争と政治の話について、読みやすく、「まずはここから読んで…」って言いたい本を挙げておきます。連休も終わりかけですが、夏休みにでもぜひ


あと補足だけど、今回のオリンピックを見ていて、ふと思い出したのはこのブログ記事だった。『昭和史』のなかで半藤一利先生が「日本の近代史は、40年周期で上り坂下り坂の時期が訪れる」と語っていたことについて言及した記事だ。

歴史作家の半藤一利氏は、著書『昭和史』*2で、40年周期説を述べていて大変興味深い。私は今回あらためてこの説のことを思い出してしまった。日本の近代史には陽と陰が40年サイクルで訪れているように見える。
(中略)
40年周期説が正しければ、次のどん底は2025年であり、日本はまだ下降を続けることになる。1985年ごろに経営の苦労も知らずにバブルや『強い日本』の勢いに乗ることばかりに血道をあげた若者が、今まさに東芝を含む各社の『上層部』となって君臨している。これは日露戦争にかろうじて勝利したものの、日本の本当の苦境や実態を知らずに、『一等国』日本を過信した若手の軍人や軍事官僚がその後日本を国家壊滅の淵に追い込んだのと似ているのかもしれない。下降を続けるうちに、今の経済界には尊敬に値する経営者が激減してしまった。(政界はこれを上回る惨状だ。)
かつて私は、バブル崩壊後の日本経済が転回の可能性があるとすれば、インターネットが本格普及期に入った1995年ごろに社会人になった大学生が企業のマネジャークラスを占めるようになるちょうど今くらいからではないか、との淡い期待を抱いていたが、どうやら現実は厳しそうだ。苦労を知らずにバブルに踊った、あるいは、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を過信した世代が経営の一線を退くまでは、この状況に歯止めがかからないと見ておくのが現実的というべきなのかもしれない。

2025年、この記事を読んだときはまだまだ先だと思っていた。が、いろんなことがあって2021年。2025年まであと4年でさらに不況が進んで、なにか決定的な出来事が起こる、というシナリオは今考えると本当にありそうな話である。どうなるのかな。

半藤先生の『昭和史』は長いけどおすすめです。私も読み返したい。


注(1)さまざまな報道


注(2)このへんの記事もわかりやすくておすすめです。

30年代の大恐慌の中で、こうした大衆の怒りは「腐敗した政党政治」に向けられ、彼らに同調するポピュリストの青年将校が首脳陣を突き上げ、石原や板垣征四郎のような強硬派が優勢になってゆく。この意味で、満州事変は「ポピュリズムの起こした戦争」ともいえよう。

今からでも繰り返しそうなシナリオで草も生えない。


いつもありがとうございます。たくさん本を読んでたくさんいい文章をお届けできるよう精進します!