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そうはいっても、パズドラだけじゃ満足できない―『花束みたいな恋をした』の物足りなさ

坂元裕二脚本映画『花束みたいな恋をした』について、感想が各所で吹き上がっている。

映画の内容は、大学時代に出会った男女が、自分たちの趣味があまりにもぴったりと合うことに感動し、そのまま付き合い、同棲にまで至るのだが、ふたりとも社会に出て仕事が忙しくなるにつれ関係性が変わっていく……という話。二人が好きな本や漫画や音楽の名前がこれでもかと登場し、文化的固有名詞が詰め込まれているのが特徴的な、恋愛物語である。

しかしこの映画、とにかくなんだかみんなの語りたい欲を誘発するらしく、各所で感想ブログを読むことができる。いろんな感想を読み漁っていたのだが、なかでも面白いな、と個人的に感じたのは、語弊をおそれずに言うと――主人公の麦・絹よりも年齢が上のひとびとたちの感想で、「彼らのありふれた凡庸性こそが、この映画のキモである」と語られることである。


(ここからネタバレ含みます、ラストの解釈を書きますのでご注意を)。


とくに私が印象的だったのは、ラストの重要なファミレスシーンの解釈である。twitterでは何人か同じようなことを言ってる人を見かけたのだが、たまたま寄稿媒体やブログでしっかりと書いてくれている方がいたので、ふたつの記事を引用する。

一見、この涙は二人のノスタルジーが刺激されただけのようにも見えるが、前述してきたような段階を踏んで解釈するならば、このファミレスでの光景は、“自分たちがいかにありふれた存在だったか”ということをまざまざと見せつけられる眺めだったのではないか。
あのシーンは麦と絹に本当に楽しく豊かだった時間を思い起こさせるものであると同時に、自分たちを結びつけた「奇跡」がそこらじゅうで起こっていることを明らかにしてしまう。本当はありふれた話なのだ。当人たちにそう思えないだけで。天竺鼠が羊文学に変わって、それでもなんら筋書きに支障がないように、新しい作品やカルチャーが無限に生まれていることにも、なんだか眩暈のような感覚を覚える。


このファミレスシーンというのは、別れ話をする麦と絹の横で、ある若い男女が、出会ったばかりのふたりと同じような会話をする場面。若いふたりは、恋がはじまったばかりの、初々しい会話を交わす。まるで出会ったばかりの、今とは関係性が違っていたころの麦と絹のように。その姿を見て、麦と絹は思わず涙する。そしてそれゆえに二人は別れを決意するのだった。

と、いう、単純に見れば、いつのまにか遠くまで来てしまった自分たちと、恋のはじまる時点との、距離感を自覚させられるシーンなんだけど。そこに、ありふれた凡庸さを見出す解釈をする人たちがいる。つまりはこの映画は、恋の終わりを描くとともに、麦や絹が、自分の凡庸さを――「特別な趣味」を共有できてた時間を終わらせて――受け入れ、大人になる風景を描いているのだ、という解釈だ。


なんというか、この映画は一見「麦がものすごく好きで絹とも共有できていたものを労働によって手放さざるをえなくなり、そこから絹とすれ違う話」に読める。自分が心から愛していた『ゴールデンカムイ』も『宝石の国』も自分のイラスト仕事も、ビジネスあるいは社会に染まる中で興味をなくしたのだ、と。でも一方でこの映画は、「麦は、本当はそこまで好きじゃなかったものを絹と共有することで輝きを得ていたけれど、労働によってそれが共有できなくなった話」にも読めるのだと思う。つまりは麦=ファッション・サブカル青年説、である。

映画に二度出てくるシーンがある。気の合うカップルが、好きな音楽を見つけ、イヤホンをつけて片方ずつの耳で聴く。ふたりで共有できないはずのものを共有する。好きな音楽の共有。それは幸福な時間だった。もちろん片方ずつの耳で聴いてるわけだから、完璧に同じものを共有はしてないけれど、でも、ふたりで聴いているというその事実が、幸福だったのだ。……だけど映画は常にふたりに水を差す。「ねえ、きみたち音楽好きじゃないでしょ?」と。ねえきみたち、その音楽、聴いてないでしょう? その音楽を共有する時間が、そしてもっと意地悪に言えばその音楽を共有してる自分たちが、好きなんでしょう?

本当に麦や絹が、音楽を、あるいはイラストを小説を漫画を映画をゲームを心から愛する人たちとして描くならたぶんここでこんな台詞は出さない。

そしてそのとおり、麦にとって好きなものだったはずの、今村夏子の『ピクニック』は、簡単に前田裕二の『人生の勝算』に置き換わる。『ゴールデンカムイ』の新刊は、パズドラに変わる。それは労働に奪われたものだったのだろうか、あるいは麦が捨てたものだったのか。

そしてそれらの趣味を失うとともに、趣味を共有していた相手である絹のことも、麦は失う。なんでも共有できた価値観の合う相手が、なんとなくずれた会話しかできない相手になっていって、お互いといる時間が少なくなって。そして結局別れることになる。

これらの姿が、大人――というとなんだかお前は自分をなんだと思っているんだ27歳の立派な大人だろと怒られそうだが――は「ありふれた」凡庸な姿だと言う。社会性を持つことで、ある種の文化的な趣味から離れてしまうこと。学生時代には気が合っていた彼女と、どうもうまくいかなくなってしまうこと。意外と働き始めたら、嫌だったビジネスに熱中してしまうこと。そしてまだ文化的な活動を続けている先輩がいたら、危なっかしい気持ちにもなりながら、どこか郷愁と羨望と憧れのまざった眼差しで見つめたくなること。このどれもが、ありふれた凡庸な姿なのだろう。

だけど私は考える。ファミレスのシーンで、麦と絹は、自分たちの恋を、本当に終わらせられたのだろうか? 麦と絹にとっての「特別な時間」は、本当にあそこで終わりだ、と思たのだろうか?


正直、この物語の作り手がどう考えているかはわからない。ファミレスで見かけた若き男女は、ありふれた姿だったかもしれないし、それは恋を終わらせるに足る、二人がもうなくしてしまったひとつの奇跡を信じていた光景だったのかもしれない。だからふたりはちゃんと恋を埋葬できたのかもしれない。だとしたら恋の終わりはとっても甘美だ。

でも私ははっきり言ってこのラストに、物足りない、と思ってしまう。(と、これを言いたくて長々とここまで書いてしまったのだ)。

だってあそこで本当に恋が終わるなら、麦がパズドラだけで本当に自分を満足させられるのなら、人生は絶望しない。本当は、人生はパズドラだけじゃ物足りなくて、ちゃんと今村夏子の新刊を読みたくなるけど読む気力がないけど往生際悪く買って積ん読しちゃうし、あるいは絹ちゃんとのツーショットをGoogleストリートビューで見つけたりしたらもうそっからLINEで「ねえ見てよ」って連絡とって絶対に第二ラウンドが始まっちゃうから、人生は花束なんかじゃ終わらないんじゃないんだろうか。

あんなふうに自分たちよりも若き男女にありふれた恋愛を託し、そして自分のありふれた人生あるいは趣味あるいは恋愛――つまりは自分の凡庸性に、26歳かそこらで、納得できるものなんだろうか。Googleストリートビューに自分の恋を残せたら満足って、そりゃないよ坂元裕二。今村夏子も芥川賞獲るくらい書き続けてるし、SMAPは解散してもキムタクの娘がインスタでは大人気だよ。あの麦くんときたら、なんかもうイラスト描く道具一式を捨てちゃってそうなさっぱりした風貌だったじゃないか。でもそんな簡単に、諦められるもんなんだろうか。パズドラだけで、ほんとに満足、できてるのかな。

もちろんそんな映画をだれも求めてないし、坂元裕二が描きたかったのはそんなどろどろした感情じゃないんだろうけれど。でも、こんなふうに、きれいに終わる? それで、ファッションサブカルを揶揄して、きれいなエモい恋で終わらせて、それで満足? ……と、誰に言うでもなく、私は怒ってしまったのだった。だって私の見た坂元裕二作品の『カルテット』も『最高の離婚』も『それでも、生きてゆく』も意外と往生際の悪い、片隅できれいに生きられない人たちの話だったから。

余談だが、麦と絹は、自分とほぼ同学年だった。私も就活しかけた時、会社説明会帰りに寄った大阪のジュンク堂で泣きそうになって、「本が読めない生活とか無理」「でも本を買うお金ない生活も無理」って心から思ったから、麦や絹の葛藤は痛いほどわかるけれど。だからこそ、あんなふうにきれいに恋と夢の終わりを描かれたら、そうか、受け入れられるのか、ほんとに? って思ってしまった。もっと本当は仕事にも趣味にも恋人にも執着しちゃうだろうし、ていうか行けなかったライブのチケットなんて、後生後悔し続けちゃうんだけどな。

たとえ外野がどれほどそれがファッションサブカルだと揶揄しても、本当にそのとき好きって思ったら、好きだったのだと言っていいのだと思うのに。その執着や、葛藤を、私は見たいのに。

なんて、ラストがあまりにきれいだったから、ちょっと文句を言いたくなってしまったのだった。だってパズドラだけじゃ満足できないからこんな映画みてるわけです。



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