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『プロフェッショナル 仕事の流儀 “ジブリと宮崎駿の2399日”』を見て批評家の役割について考えた

みなさん、『プロフェッショナル 仕事の流儀 “ジブリと宮崎駿の2399日”』を見ましたか。

映画『君たちはどう生きるか』を作るにあたって、宮崎駿監督がいかに苦心して「高畑勲監督という名の”父”と別れを告げるのか」を中心に描いており、結果的に半ば狂気の域まで達しながらも映画をつくることで彼は高畑さんとのお別れを果たしたのだ、というストーリーになっていました。

編集もすごく凝っていて、ジブリの映像をたくさん編集に使えるなんて嬉しすぎ! というプロデューサーの声が聞こえてきそうな番組でしたね……そんなことない? 

しかし私はこの番組を見て心底「批評家がやるべきこと」について考えたのでした。


1.批評の時代から、考察の時代へ

そもそも私は、ここ数年は「考察の時代」だと思っている。

考察とは何かというと、「作者が作品に仕掛けた謎を解く」こと。たとえばドラマ制作者がドラマに仕掛けた謎を視聴者が番組を見ながら解いていくこと、あるいは映画製作者が映画に忍ばせておいた秘密を視聴者が紐解くこと。どんな作品にせよ、現代で流行している「考察」は、作者が仕掛けた謎を、読者(消費者)が解くゲームのことである。『あなたの番です』『VIVANT』をはじめとして、ドラマでもまるでミステリの謎を解くように楽しむ人が増えた。

対して、今までは、「批評の時代」だった。批評とは「作者すら思いついていない作品の解釈を提示する」こと。つまり作者は作品の生みの親ではあるが、親が子をすべて理解しているとは限らないのと同じで、作者が作品のことをすべて理解しているとは限らない……という態度を批評は取っている。

批評と考察の違いは何か。
考察→作者が提示する謎を解くこと
批評→作者も把握してない謎を解くこと
と分けられる。

たとえば『となりのトトロ』を見て「実は宮崎駿は”サツキとメイはすでに死んでいる”という設定を潜ませているのだ」という解釈をおこなうのは、考察。「実は”サツキとメイは幼いうちに日本で戦争によって亡くなった子供のメタファー”として解釈できる」という解釈をおこなうのは、批評。

――やっていることは一見同じに見えるけれど、「製作者の意図」の有無がポイントだ。

長年オタクと呼ばれる人は、製作者の意図なんてどうでもよかった。いや、どうでもいいは言い過ぎだが、製作者より作品のほうを重視していた。しかし最近はその傾向が変わりつつある。「製作者の意図」として解釈を施すのがかなり流行っている。というか、たぶん「製作者の意図として受け取る方が安心できる」人がかなり多いのではないだろうか、と私は思っている。

なぜなら正解かどうかわからない解釈なんて、知っても面白くないからだ。製作者が忍ばせた、ひそかな真実を知ることが、考察の楽しみ方なのだろう。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の制作過程をドキュメンタリーにした『プロフェッショナル 仕事の流儀”庵野秀明スペシャル”』を見た視聴者が、「マリとは安野モヨコがモデルである」という解釈を施していた。これを見た時に私は「ああ、考察の時代が来たんだなあ」と思った。

というのも、エヴァシリーズなんて「批評」の時代の産物のような作品なのだ。庵野監督の意図を超えて、エヴァが時代の何を象徴していて、世代の何を表現していて、そしてどういう解釈が可能か、オタクたちは意見を戦わせていた。

しかし『プロフェッショナル 仕事の流儀”庵野秀明スペシャル”』を見た視聴者は「そうか、庵野監督は安野モヨコをモデルにしてマリを描いたんだ」と言った。庵野監督も困惑したことだろう。「モデルか?」と言われたら「いやモデルじゃないです」としか言いようがない。実際エヴァの公式アカウントで明確に否定している。

もしオタクが「マリとは安野モヨコ的な理解ある妻の”表象”である」という言い方をすれば――つまりひと昔前の批評の言い方であれば――庵野監督も「そういう解釈はどうぞご自由に」というほかなかったのではないだろうか。だってそれはそういう解釈が可能だから。だが、今の時代は「比喩である」とか「表象である」とかそういった言い方は好まれない。なぜなら考察の時代だからだ。考察の時代は、作者の意図を読み取らなくてはいけない。だからこそ、シンエヴァを見た視聴者は「庵野監督は、安野モヨコを”モデル”にしてマリを描いたのではないか」という言い方をしたのだ。それは批評ではなく考察である。作者に正解を問うゲームだ。

庵野監督は批評の時代にデビューした人なので、視聴者の「考察」に困惑した。


2.ジブリが提示する考察への回答

が、ここで登場するのが本題の、ジブリだ。

私は『プロフェッショナル 仕事の流儀 “ジブリと宮崎駿の2399日”』を見たとき、「うわあ、ジブリが考察の時代に合わせたドキュメンタリーを作ってる!!!」と驚いたのだ。

そもそもスタジオジブリはドキュメンタリーを作成することが多い。それはスタジオジブリとしてドキュメンタリーを作った方が宣伝になると判断した結果だろう。実際、ドキュメンタリーを見れば見るほどジブリの映画が見たくなるし、その判断は間違いなく正しい。基本的に宮崎駿監督の創作への葛藤と、それに巻き込まれる周囲のスタッフたちを写し続けるジブリのドキュメンタリーは、今のSNSやYoutubeで作者が制作過程を読者に見せる宣伝手法の、ある意味で先行例だったのかもしれない。

しかし今回の『君たちはどう生きるか』制作ドキュメンタリーは、宮崎駿監督の創作への葛藤をうつすに留まっていない。

『君たちはどう生きるか』の世間の考察に対して、「大叔父とは高畑勲がモデルで、アオサギとは鈴木敏夫がモデルで、眞人とは宮崎駿がモデルなのだ」という「製作者からの回答」を提示しているのである。

考察の時代を踏まえた、これ以上ない「回答」をジブリは出してくれたのだ。

実際、『君たちはどう生きるか』を見た視聴者たちはさまざまなブログで語った。宮崎駿がどういう意図でこの映画をつくったのか。ドキュメンタリーが提示した構造そのまま述べている人も多かった。そして映画公開から数か月たった今、ドキュメンタリーで回答をうつした。「この映画は、こういう意図で作ったんですよ」と。視聴者は安心する。そういうふうに観ればいいのか、と。考察の回答が明らかになった今、答えを確かめに行こうともう一度映画を見に行く人もいるかもしれない。

――が、私は思う。

それでいいんだろうか? と。


3.「考察の時代」における批評家の役割

私は『君たちはどう生きるか』という作品を、「宮崎駿が高畑勲の死を乗り越えるためだけに作った、自分たちの関係性をアニメにうつしだした作品」としてのみ読むことに反対したい。

なぜなら『君たちはどう生きるか』という作品は、もっともっと豊饒な作品だからだ。

そもそもこの映画のポイントは、宮崎駿が少年の葛藤を描いたところにある。……というのは鈴木敏夫がラジオで述べている。

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