『バービー』は「生まれてきたこと」を肯定できるか? ー映画『バービー』と反出生主義とポストフェミニズム世代
現代のフェミニズムのいちばん解くべき課題は、どこにあるのだろうか?
それは私たちが生きること、そして次世代を残そうとすることを肯定できるかどうかである。と、映画『バービー』は答えている。
ショッキングピンクに覆われた人形の夢の世界を描いた本作は、一見フェミニズムを強烈に肯定する映画に見えて、その裏側に存在する現代の私たちの病を炙り出す物語だった。
※ネタバレありです!
1.戦後フェミニズムの歴史
バービーの人形は、1959年のアメリカで誕生した。その作り手は、ルース・ハンドラー。女性が働くことすら珍しかった時代に、バービー人形を製造し、ヒットさせた彼女は、女の子の「人形遊び」をお母さんの真似事ではなく働く女性の真似事に変えた。
ルースこそが、60年代のアメリカにあって革新的な「働く女性」そのものだった。それはまさに、ウーマンリブの風が吹き荒れた60年代の女性の姿そのものだったのだ。中絶の自由、職業の自由、大学入学の自由。今となっては当たり前の権利を女性たちが手にしたのは、ルースたちの世代が運動を起こしたからだ。
そんなルースが娘世代に手渡そうとしたものが、「バービー」だった。ウーマンリブ世代が下の世代に手渡そうとしたフェミニズム運動の機運。それは、ミニスカートで自立して働くかっこいい女性。ケンという恋人はいるけれど、バービーは専業主婦にはならない。ハイヒールを履いて、彼女は家を出るのである。
そんな理想が詰め込まれたバービー人形がすっかり当たり前になった時、ポストフェミニズムという思想潮流が生まれた。ポストフェミニズム文化の全盛期は、1990年代後半から2000年代。英語圏で『ブリジッド・ジョーンズの日記』が流行し、日本で『CanCam』誌面でエビちゃんが微笑んでいた頃のことだ。女性の主体性をエンパワメントしながら、それでいて男性とカップルになり結婚することやそのために美しくあることを求める、その両立こそがポストフェミニズムの時代の特徴であった。
それはまさにバービー人形が目指した世界そのものだ。しかし皮肉にもバービー人形が目指した世界は、「女性の職業的自由や自立は達成されたんだからフェミニズムは『もう』必要ない」という言葉を生んだ。
そして2010年代、metoo運動の波が登場した。バービー人形は有害なものとされ、Z世代はフェミニズム思想に対して敏感に反応する。もうピンクはいらない、「自分のため」におしゃれはするのだと彼女たちは説く。
ーーこのフェミニズム戦後史を、映画『バービー』はわかりやすく示していたのである。
2.映画『バービー』で示されたフェミニズム史
映画『バービー』に登場する、かつてバービーで遊んでいた母親は、明らかにポストフェミニスト世代の女性である。一方でその娘はZ世代で、彼女はバービーを有害であると看破する。そしてそんなバービーを、ルースーーつまりウーマンリブ世代が慰め、励ます。この流れは明らかにフェミニズム戦後史を踏まえた物語なのだ。
では、今のバービーはもう「用無し」なのだろうか? 映画はそこにケンという裏の主人公を登場させる。
ケンは現実で言うところのトランプ支持者そのものだ。「女性や黒人やLGBTに自分の権力を奪われたと感じている白人労働者階級男性」である。男であるだけで尊敬されていた時代があったのだと知り、その時代に戻りたいと反乱を起こす。
バービーはそんなケンを諌めるべく、男ってバカよねと仲間内で笑いながら反乱を止めようとする。そしてケンに諭す。「自分と向き合って。女性と付き合えたらそれだけで勝ち組だと思うような、脆弱なアイデンティティじゃだめだよ」と。
そしてバービーはケンとロマンスを紡がず、自立した女性として、男性に従属しない、ひとりの人間として、生きようとする。
ーー『バービー』を単なるフェミニズム映画だと見るならば、おそらくここで話は終わるだろう。というか、おそらくこの読解だけでも映画としてのカタルシスは得られるのだ。
metoo運動の後、男性性の問題の解決によって、私たちは和解できる、というラスト。現実の私たちも概ねそのような方向に今向かっているだろう。フェミニズムを題材にした映画として何の問題もない。
だが映画『バービー』の複雑さは、ここからである。『バービー』はこのようなフェミニズム/男性性の問題を問う作品でありながら、それだけで、終わらない。
※この先、さらにネタバレありますのでご注意を!
3.バービーと反出生主義
映画『バービー』に込められたもうひとつのテーマとは、主人公バービーが「死にたい」「死ぬことを考えちゃう」と言い出すことにある。私は人形だし、ずっと変わらない存在だし、ずっとパーティーを続けられるはずなのに、なぜか死にたくなってしまう。死にたい。明日が来てほしくない。
そう感じる自分自身に、バービーは戸惑う。
そして映画の結末部分、バービーは人間として生きることを(ほとんど唐突に)決定する。その結果として、バービーは「妊娠した」ことを明かすのだ。
映画は突然この結末を持ってくるので、おそらく観客のほとんどはこの結末をうまく解釈できずに終わるのではないだろうか。しかしバービーは妊娠する。つまり次世代に子孫を残すことを決める。ケンとはキスしない、ロマンスを紡がないことを選択しながら、バービーは妊娠する。
これはどういう意味だろうか? 私はここに、グレタ監督が潜ませた、metoo運動後のZ世代的フェミニズムーーつまり現代の問題点が示されていると見る。
そう、私たちは自立も、おしゃれも、自己表現も、資産も、手に入れた。女性たちは男性なしで世界を手に入れられるところまで来ている。まだまだガラスの天井はあるが、時間の問題だろうと思える。スマホさえあれば仕事ができて、誰とでも繋がれる世界に来ている。
しかしそれでも私たちは「死にたい」と思うことをやめられない。もっというと、「生まれてくることを肯定したい」と思えない。
反出生主義、という言葉がある。次世代を残すことを肯定できない、どうやって家族を作っていいのかわからない、フェミニズムのその先で私たちは次世代に生きることを肯定してあげられるのか? いいや、生まれてこないほうがよかったに決まっているーーそんな思想を紡ぐことをやめられていないのだ。私たちは。だから話は難しい。フェミニズムが達成されても、反出生主義は残る。
グレダが目指したのは、ここの克服なのだ。
バービー人形とは、「お母さんになること」つまり次世代の親になることを放棄するところから始まった。親になるなんてかっこわるい、それがバービー人形の出発点だ。しかしだとすると、次世代をつくることを私たちはどうやって肯定すればいいのだろう? バービー人形にはまず、今、次世代をつくることを肯定してもらわなきゃいけないんじゃないか。
それこそがこの映画の挑戦だったのだ。
問われているのは、男女の問題だけではない。私たちが生きることを肯定する姿勢そのものだ。
バービーが選んだ道を私たちも選べるかどうか。それは、生きていることを肯定することができるか、その問いそのものなのだった。
※以下追記です!
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