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『すずめの戸締まり』の分からない点を3つ挙げたので、誰か有識者に解説してほしい

新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』を観てきた。

私のなかで新海作品とは「上手な気がするしツボを的確についてくれそうなのに絶対にツボをついてくれないマッサージ師」みたいなもんである。新海作品の鑑賞は「あ~~~そのちょっと右~~~!!!!」「ち、違う~~~~ちょっと違う~~~~~」と心の中で嘆きまくりながら無言でマッサージを受ける時のあの感覚に似ている。

というわけで今回は『すずめの戸締まり』分かりませんでした!!!!!! という話。誰か有識者、解説してくれ!!!! この記事をレジュメにして解説してくれ!!! という叫びの記事である。


※『すずめの戸締まり』に肯定的な意見を求めている人はまわれ右してほしい。あとネタバレもここから下はあるので、ネタバレ嫌な人もまわれ右してほしい。よろしく頼んだ。


~~~ここからネタバレある~~~


謎①猫ならいいのか

『すずめの戸締まり』、最大の謎がこれである。

ね、猫なら……いいのか……!? 

もうここに関してはこれ以上言うことがないのだが、「猫ならいいのか……!?」が引っ掛かりすぎて謎であった。『すずめの戸締まり』を絶賛している人たち、この点についてどう考えているんだろう……? 煽りでなく。解釈を教えてもらいたい。

『天気の子』から続くセカイ系トロッコ問題「誰かを犠牲にするのか/世界を救うのか」に対し、「人間は犠牲にすべきでない、猫ならよし!!!」という答えを出したことが衝撃的すぎて、いまもって新海誠という男が分からないよ。


謎②震災のトラウマがわからない

いちばん思ったのが、この作家にとって「震災のトラウマ」とは何を指すのだろう? ということだった。

『すずめの戸締まり』においては、物語を貫くトラウマとして東日本大震災が登場する。しかし肝心のトラウマの内容が私にはわからなかったのだ。

日本という国にとっての東北の地震の最大のトラウマは、私は「知らないうちに原発を東北という地方に押しつけてしまっていたこと」だと思っていた。しかしこの物語において、原発の問題は(少なくとも映画においては)主眼にない。あるいは自分だけ生き残ってしまった、遺されたものの罪悪感というトラウマもあるだろう。たとえば朝ドラの『おかえりモネ』なんかは丁寧のトラウマに後者を描いていたと思う。しかし主人公たちが抱えるトラウマはそういう話でもないのだ。

ただ、「東北の震災」が「日本の原罪」そのもののように描かれているように私には見えた。そこが謎だった。

『すずめの戸締まり』という物語において、地震は、日本の土地に根付く神様が荒ぶった結果のようなものとして捉えられている。主人公たちはその神様が暴れないように「戸締まり」するのが仕事なのだ。ではなぜ荒ぶる神が現れるのか? それをこの映画は「廃墟」というモチーフで説明する。つまり、昔は人が住んでいたのに、今は誰もいなくなり、忘れ去られそうになった街。だからこそすずめたちは、廃墟に行って、そこに住んでいた人たちの声を聞き、彼らの声をその場に再現し、土地を寿ぐ。

たぶんこのあたりの意識には、『万葉集』あたりの時代の感覚がベースとして存在していると思う。たとえば万葉歌人・山部赤人が富士山について詠んだ下の歌が有名なのだが、

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞふじの高嶺に雪は降りける(『万葉集』巻三・三一八)

奈良時代には、歌人が天皇の行幸に付き添って、「土地讃め」の歌を詠む文化があった。上の歌は、聖武天皇の行幸についていった赤人の歌である。土地を祝福することによって、その土地の神様を鎮めるのだ。

新海監督はこのあたりの感覚をすごい勉強している人というイメージが(私の中で勝手に)あるのだが、『すずめの戸締まり』は、つまりは土地讃めをやっているのだと私は理解している。配布されたパンフレットにも「すずめの旅は、土地を悼む旅なのだ」というようなことが書いてあったが、すずめたちの旅は要は聖武天皇と山部赤人の旅路のオマージュなのだと思う。忘れ去られた土地の祝福(=戸締まり)により、その土地の神様が荒ぶる(=ミミズの登場)ことを鎮める旅路。

しかしだからこそ、私は「じゃあなぜ東日本大震災は止められなかったのか?」という点がかなり謎なのである。

そもそも、廃墟からミミズが現れる、という設定も東京あたりでやや曖昧になっている。その曖昧さの極めつけが東北で、東北のどこに忘れ去られた土地があったのか、何も描かれていないのがかなり「??」と疑問だった。

私ははっきりと、東日本大震災の話、物語から浮いてない……? と思ってしまった。東日本大震災の話になると、突然「すずめ自身のトラウマ」の物語になる。そして幼かったころのすずめの救済に向かう。

「忘れられたことによって地震が起きる日本の呪い」(前半の全国各地の地震の話)と、「大きな地震を経験したすずめ自身のトラウマの救済」(後半の東北の話)が、分離している。そして映画全体においては、後者のメッセージで終わっている。地震を経験した若者に、トラウマを持つ必要はない、あなたたちは幸せになる権利がある、と語りかける。それ自体は素晴らしいメッセージだと思う。

でも私は納得がいかなかった。

前半で、忘れ去られたことによって土地の神様が怒り、その怨念が荒ぶる結果が地震なんだと言っておいて。そのうえで後半で、現実に起こった地震を出すのって、ちょっと……どうなんだそれは……と言いたくなった。

だって誰も悪くないから地震なのに。

これが原発の話ならわかる。ミミズが原発ならわかる(だってそれは人災なので)。でもそうじゃない。東北の地震というどうしようもない天災に、この物語は、ただただ祟りの概念を持ち込むだけだった。そのセンスが私には不思議でしょうがないのだ。

東北の地震で生き残った少女が、日本にこれから起こる未曽有の地震を防ぐ旅をする。――それだけ聞くとたしかに美しいよ。美しい物語だよ。でも、日本の地震の理由を「忘れ去られた土地の祟り」だとしておいて、実際に起きた地震を出すのって、一体……と私は引いてしまった。

でもたぶん、このあたりの物語のバランスを崩してでも、作り手は、東北の震災のトラウマを、出したかったんだよね。これは東北の話なんだって言いたかったんだよね。しかしそのトラウマの内容が、やっぱり私にはわからないのだ。原発への罪悪感でも、生き残った罪悪感でもない、ただただ「地震が起きて被害があったという事実への罪悪感」のように思えて、その内容が私には分からなかった。


謎③なんで右映画なのにジブリ!?

さらに思ったのが、今回はジブリオマージュが顕著である。もののけ姫、耳をすませば、魔女の宅急便、猫の恩返し、千と千尋の神隠し……挙げていけばキリがないほどに意識的なジブリオマージュに満ちている。が、これの意図がわからない。まったくわからない。

宮崎駿といえば『もののけ姫』を参照するまでもなく、思想的には強く左である。しかし今回の『すずめの戸締まり』は萬葉集を引っ張り出すまでもなく、天皇制表象映画なのである。

災厄を鎮める存在としての天皇を描いた映画なのだ。これみよがしに皇居まで登場させている。

これは言い過ぎだろうけど、すずめの途中の服装や髪型なんて、眞子さまへのオマージュだろうか? とすら思った。最初の構想ではすずめと叔母さんの関係は女性二人だったらしいし、眞子さまと佳子さまのロードムービーとしての構想もありそうだなあとぼんやり思っていた。

が、そんな映画で、なぜよりにもよって宮崎駿オマージュ……?? と私ははてなで頭がいっぱいであった。なぜなんだ。あの意図が本当に分からない。謎であった。


というわけで好き勝手書いた、「ここがわからん『すずめの戸締まり』」でした……。わからないよ私には!!! 新海誠映画有識者に今度『すずめの戸締まり』解説をしてもらおうと私は思っているので、この記事をレジュメにできたらいいなと思います……。ハイ……。


しかし『すずめの戸締まり』、好きなところもけっこうある。まずタイトルがめちゃくちゃいい。ていうか最近の新海作品、タイトルがぜんぶいい。と、思いつつ映画が始まるまでもらった冊子(パンフレットのような豪華な冊子がついてきて驚いた)を読んでいたら、タイトルはプロデューサーの川村元気さんによるアイデアだと書いてあった。

ああ、私の本も川村Pにタイトルつけてもらいたいよ……。いいタイトルを思いついてくれるプロデューサー、一生ついていきたくなるよな……わかる……。

さてはて、思いのほか長くなってしまった。いやしかし、私がなぜこんなに新海映画にぎゃーぎゃー言っているかというと。

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