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『A子さんの恋人』とあなたの存在は軽いのか

「やはり 答えは君にしか出せないのだ」
(『A子さんの恋人』7巻、近藤聡乃、KADOKAWA)


のっけから本題から離れる話で恐縮なのだが、ミラン・クンデラの小説に、『存在の耐えられない軽さ』という作品がある。ひとりの男性に対してふたりのヒロインが登場する物語。ふたりはまるで反対の特徴をもっていて、一方はとにかく軽く軽くありたいし他人にとって自分の存在が重いことに耐えられない女性、そしてもう一方は他人にとって自分が代替可能であるほどに軽いことに耐えられない女性、というキャラクターになっている(と私は解釈している)。だけど小説は描く。自分がここにいることも、相手と出会ってることも、結局は偶然でしかない、ということを。さあ、私たちの存在は、軽いのか、重いのか? どれほど代替可能なのか? そんなことをテーマとした恋愛小説なのである。

最近完結した漫画『A子さんの恋人』を読んでいるとき、1巻の最初から私の頭にあったのは、『存在の耐えられない軽さ』だった。『A子さんの恋人』と『存在の耐えられない軽さ』は同じテーマを描きつつ、まるで反転するみたいに、男女を逆転させた構造になっている。『A子さんの恋人』に登場するのは、ひとりの女性に対してふたりのヒーロー。A子さんは、ふたりの恋人――日本にいる腐れ縁のA太郎と、ニューヨークにいる翻訳家のA君――の狭間で、悩む。はたして結婚や自分が求めてる人生が日本とニューヨークのどちらにあるのか、あるいは自分はそもそも結婚もしたくもないのだろうか、と。悩めるA子さんはどちらとくっつくのか? というのが一応『A子さんの恋人』のあらすじである。

A子さんは、『存在の耐えられない軽さ』的に言うと、「自分の存在は代替可能であると思っているけれども、代替不可能だと言われたらそれはそうな気がして、まあなんとなくもやもやする」キャラクターだ。A子さんは、本当の名前は「英子」だけど、べつに「A子」と認識されてもいいんじゃない、と思っている。「英子」である必然性なんてないでしょ――つまりそこにいるのは自分じゃなくてもいいのだ、自分は代替可能なのだ、と、べつに悲観的でもなくたんたんと、そう思っている、のだ。

「私が「英子」だということなんて他人にとってはたいした問題じゃないのだ
他人にとってえいことか けいことか ゆうこは漠然と
エーコ ケーコ ユーコなのである」
(『A子さんの恋人』1巻)

でも、本当に代替可能なほど、私たちの存在は、A子の存在は、そしてなによりA子にとってA君は、A太郎は、軽いのだろうか?

『A子さんの恋人』は、びよーんとのびたお餅みたいに、A子が自分にとって、自分の人生にとってなにが、だれがどういうふうに大切なのかをぐずぐず、えんえんと考える話だと思っている。

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(『A子さんの恋人6巻より。餅をたべてるU子ちゃんが好きすぎる)。



で、最終巻ですよ。最終巻、もう、本当に泣けてきてしまって、ああこのラストに辿り着くために作者はずっとA子にぐずぐずえんえんと逡巡させてきたのだなあ、と思ったのだった。

A子は最終巻で、自分のデビュー作の書き直しの〆切を自分で設定する。べつに誰に設定されたわけでもない〆切なのだけど、A子は自分でびよーんと伸びた餅を食べ終わる日を決めるのだ。ちょっと痺れる。それはA子が漫画をはじめて完成させた(デビュー作をA太郎と一緒につくった)ときからはじまる、A太郎との長い長いびよーんと伸びたモラトリアムを終わらせる日なのであって、同時に、モラトリアムが終わるということは、モラトリアムをもたらした何かをうしなう日でもあるから。

デビュー作。いうまでもなくA子はA太郎と自分の関係を描いていて、A太郎の「君は僕のことそんなに好きじゃないんだよ」という発言の経緯を物語にしたのだった。

A太郎はA子さんと同じく、「自分にとって他人は軽い(=代替可能だ)」と思いがちで、そして同時に、「他人にとって自分は軽い(=代替可能だ)」と思い込んで、それによって傷ついている。……これ、ものすごくよくある話だと思うんだけど、A太郎は、他人にとって自分が重いのが怖い、と同時に、でも本当にそうである(と思っている)ことに傷ついているのだ。だからこそ「ねえきみにとって僕は軽いでしょ」って言いたがる。それを確認したがる。そしてそうであることを確認できたら、ほっとするとともに、傷つく。その相手を好きであればあるほど、傷ついてしまう。……とてもよくある話だなあと思うと同時に、でも、そんなこと言って傷つくのは本人なんだけどなあ、と私はA太郎を見ていて思う。

A子さんは自分もおんなじように他人にとって自分は軽いと思っているからこそ、その場では「そんなことない」って言えなかったのだけど、最終巻で、やっと「そんなことない」とA太郎に伝えることができる。私にとって、あなたはちゃんと特別(=代替不可能な存在)だよ、と。そんなふうに自分を軽いものだとして思い込まないで、と。

A太郎の存在をずっと重いのか軽いのかよくわかってなくて、それはたぶん翻ってA太郎にとって自分が軽いのか重いのかよくわかってなかったということだと思うのだけど、その問いに対して、A子はちゃんと「あなたは特別だから、私にとって重いのだ」と告げる。A子にとって、存在は、ちゃんと重かったんだね。


かくしてA子に、ちゃんとあなたの存在は重いのだ、と言ってもらったA太郎は、自分にとってもA子は重いんだと理解する。だからこそA太郎は、「ちゃんとA子を失う」決断をする。……私はほんとうにこのラストに泣けてきてしまったのだ。いやもう、泣けませんか。たしかに、モラトリアムって「何も選んでない」からこそ「何も失ってない」最強の時間なんだけど、でも同時に、「何も失わない」ことによって、なにかを特別だと言えてない時間でもある。それによって誰かを傷つけてたりするんだよね。だって「何も選んでない」って、「何も重い=特別だと思ってない」ってことでしょう。

つまり、ちゃんと何かを失わないと、何も得られないんだよな、でも失うって痛いよなあ、でもそれを得ようとしないことによって他人を傷つけることもあるよなあ……と。それを分かることができたA太郎もA子も、すごい、と、泣くほかなかった。泣いちゃうよ。


人間、軽くありたいのはやまやまである。重い責任もおいたくないし、誰かにとって自分が代替不可能であるなんて、怖い。それでも、答えは自分で出すしかなくて、そのとき、何かを進める時には、きっと何かを「ちゃんと」失わなくちゃいけなくて、そのぶんの痛みを負わなきゃいけないよなあ、と私は思っている。『A子さんの恋人』は、その喪失の痛みも、それでも進めなくちゃ結局なににもならないことも、でも進めるまではやっぱりぐずぐず迷ってしまうことも、全部ちゃんと描いてくれていて、私にとっては泣けてどうしようもなかった。

ずっとあの部屋で漫画を描いてられたらよかったんだけど。そうもいかない。海に出る人は出るし、ずっと一緒に泳ぐわけにもいかないし。私たちは、代替可能なんかじゃない、たしかに重い存在で、「英子さん」はやっぱり「A子さん」なんかじゃなかったのだ。

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