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『スキップとローファー』が否定した「スクールカースト」の物語

2月3日(土)18:00より『スキップとローファー』がyoutubeでチャリティー配信されるとのこと。

そこで、この物語の何が素晴らしいのか、改めて私も語ってみたい。

高松美咲著『スキップとローファー』(1~9巻、以下続刊、講談社)の素晴らしさとは、私はこの物語が、スクールカーストを否定したところにある、と思っている。

スクールカーストはたしかに存在する、絶対に存在する、でもそれは現代においては「存在すべきではないもの」である、という主張。

これこそがこの暖かくて緩やかな物語の、もっとも鋭利な思想である、と思っている。

これがどれだけすごいことなのか、これまでのスクールカーストの描かれ方を解説したうえで伝えたい。


1平成のスクールカースト物語



私は1994年生まれだが、自分が小学生の時に流行したドラマ『野ブタ。をプロデュース』(2005年、日本テレビ)はすでにスクールカーストが描かれた物語だったと思う。

それまでの「教室でのいじめ」を描いた物語とは違い、いじめられっ子といじめっ子が存在する構造ではない。教室内には身分があり、基本的にその身分は覆すことができない(つまり上位に位置するグループは、必ずしもいじめっ子ではなく、ただ身分があるだけなのが重要)。その身分制度をひっくり返すゲームを仕掛けたのが、『野ブタ。をプロデュース』の主人公、修二だった。

白井玄による『野ブタ。をプロデュース』の小説が刊行されたのは2004年だったことを考えると、2000年代半ばあたりから「スクールカースト」的な空気が蔓延していたことがわかる。「KY」という言葉がユーキャンの流行語大賞にノミネートされていたのが2007年だったことからも、2000年代とは空気を読んでカースト上位にいることが至上命題だったのだろう。この辺りの空気は私も覚えている。朝井リョウの小説、あるいは実写映画の『桐島、部活やめるってよ』を読んでもこのあたりの空気はよくわかる。

ちなみに『教室内カースト』という新書が出たのが2012年、このあたりになるとスクールカーストの存在は自明のものになる。

『野ブタ。をプロデュース』も『桐島、部活やめるってよ』も、基本的に「スクールカースト」を描いた物語の基本構造は同じである。

それは、「上位」のキャラクターが「下位」のキャラクターと交流することで、教室内のヒエラルキーを転倒させるという構図で物語のカタルシスを生み出す。

これは身分の階層があったときなども使われる構造で、基本的にヒエラルキーを否定するために人は(本来交わることのなかった)ヒエラルキーを超えた関係を描くことでヒエラルキーを転倒させる、という描き方になる。

漫画であれば『かぐや様は告らせたい』(ここでは明確に「家柄」でヒエラルキーが描かれるが、これもスクールカースト的なもの風刺だと私は思っている)や『君に届け』も同様の構造である。

『スキップとローファー』も最初はこれなのかな、と思っていた。


2 令和の『スキップとローファー』が描いたもの

でも『スキップとローファー』を読んで私が感動した。時代はたしかに進んでいるんだ、と心底思った。

なぜそう感じたのかというと、この物語が、「スクールカーストを当たり前だと思ってた高校生が、そもそもスクールカーストを当然とする価値観を内面化していることを恥ずかしく思う様子」を丁寧に、繰り返し、描いているからだ。

それが別に説教臭くなく、なんというか等身大で描かれているところが、胸がぎゅっとなってしまうのだった。

たとえば、主人公のみつみちゃんはスクールカーストを知らない高校生としてやってくる。

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