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ICUC#022(篭って週間#016)2020.7.12【伝えること、書くということ/グラヴィティ・ゼログラビティ問題】

今週ものんびりと知的好奇心のアップデート【 ICUC 知的好奇心向上委員会】に参加したので、復習用の参加メモを作成しています。

今日の推薦図書
『論文の教室 新版』戸田山和久著(NHK出版刊)

動画 (ICUC先行公開後に一般公開)
016「伝えること、書くということ/グラヴィティ・ゼログラビティ問題」
映画『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』を映画館で観ました。最高でした! そこに内在化するグラヴィティ・ゼログラビティ問題について話しております!気ままにご覧ください。

今日の推薦映画
『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』

『ゼロ・グラビティ』

[CAMPFIRE] ICUC 知的好奇心向上委員会

ICUC note

ICUC主宰:角田陽一郎webサイト

mireva channel

動画の内容
・アイドリング
 パソコンというものは録画中にフリーズする
・GRAVITYとゼロ・グラビティ
 その言葉で伝えたいことが伝わるだろうか?
・Little Womenとストーリー·オブ·マイライフ
 少女を若草表現する秀逸さ
・論文を書くこと本を書くこと
 型通りで退屈ならそれは言いたいことが退屈なんだ
・その瞬間を諦めない
 予想外が想定外になったとき僕達がやること
メモという名の私の感想

アイドリング

おはようございます。ICUC知的好奇心向上委員会7月12日バージョンです。若干声が低いのは収録して10分近く喋ったらパソコンがフリーズ(笑) え〜!また喋り直すの?!みたいな。違うの撮り直して編集してがっちゃんこすればいいんだけど、一瞬迷ったけど、これ一発撮りで喋ってるから面白いのかなと。
ということで、また最初から話し始めます。と言っても皆さんはこれが最初なのか途中なのかなんて分からないというのは、何が本当で何が嘘かみたいな感じでございますが、よろしくお願いします。

何話してたんだっけな。最初は梅雨ですねみたいな、どよーんとして、雨が多く降って、被害がたくさんあって。被害被ってる方は本当のにお気をつけください。本当に心苦しいですが、そんなどんどん住みにくくなっているこの地球で、我々はどう生きるか?みたいなことを話して、本の紹介をして熱く語っていたところでフリーズしちゃったものですから、その話から続けるのもなんなので、全然違う話をしてみようと思う私がいます。

GRAVITYとゼロ・グラビティ

この前、田中泰延さんとワタナベアニさんとTwitterでちょちょっとやりとりした映画【ゼロ・グラビティ】問題。ゼロ・グラビティ、面白いですよね。でも原題はGRAVITY、邦題がゼロ・グラビティ、それって意味わからなくないかって話。意味が分からないと言うのは色んな意味の分からなさの深さがあり、めちゃくちゃ浅い意味の分からないということに対する深さがたくさんあるって話。

元ツイートは写真家のワタナベアニさんで、それに僕はマジレスしちゃったわけです。この映画は宇宙空間の無重力=ゼロ・グラビティで四苦八苦し、なんとか重力=グラビティのある地上に戻りたいって映画。最後に地球の重力を感じられて終わる映画なので9割ぐらいはゼロ・グラビティなシーンで、無重力で苦労する、様々なハプニングが起こる、どう対処する?!みたいなことが描かれているエンターテイメント作品だけど、結局あの映画の一番言いたいことは"グラビティを感じる"ということ。だからあのタイトルの原題がテーマとしては絶対GRAVITYという映画。

ところがそれが日本に来るとゼロ・グラビティに。そうなった理由は分からないけど、現象学的に解釈すればあの映画は9割ぐらいがゼロ・グラビティのことを描いてるから、「要はあの映画って無重力で悪戦苦闘する映画じゃん?ということで、ゼロ・グラビティというタイトルにしましょう」という決め方が垣間見られる。それって本質的なことをタイトルにすべきか?見た目の印象をタイトルにすべきか?という問題を孕んでるん。

田中泰延さんは史上最悪の邦題だとツイートしてる。これはこの映画がよく出来てるから言ってると言う意味で、本当に残念。ゼロ・グラビティって言ってしまったら、本当に映画が伝えたいことが伝わらない邦題になってしまう。これってすごい嘆かわしいことじゃないかと思う。

邦題って日本語にすべき、むしろ邦題を付けるなら。それか原題そのまま。原題だと長いから短くするとかはよくあるけど、それって義務教育では英語をやってるし、高校でも大学でもやってるし、つまり英語がわからない人がいるから英語を分かりやすいインチキ英語にしようというのも昔もよくあったけど、あるいは「英語だと分かりにくいから邦題にしよう」は…そろそろいいんじゃないか?だってこの国は国際化なんじゃなかったんでしたっけ?つまり目指してるとこはどこかと言うときに、この原題だと馬鹿な市民層はこの映画観たいと思わないよね?という思想も感じられる。

つまりGRAVITYという映画がゼロ・グラビティになってしまうことは、映画の本質は伝わらないし、それくらいのレベルの低い国民なんだということになる。
またタチが悪いのは、たぶん無意識。レベルが低い国民に対して、レベルの低いタイトルにしようと考えてるわけじゃなく、この映画の良さを伝えるためにと真摯に考えて、結果、観客を信じてない。あの映画はどう考えてもGRAVITYと僕は思う。それか…(例えば)大地への帰還(笑) 恥ずかしいですけど、すごい日本語的なタイトルにするとか。

「Gone with the wind」と言う映画はBLACK LIVES MATTERで槍玉に上がってるけど、この映画の邦題は「風と共に去りぬ」。素晴らしい邦題だと思う。Goneは完了型で、去りぬも完了型、すごい邦訳!そういう本質的なものを日本的に改編して日本の市場に出すと言うことは今までもたくさんあった。

最近はカタカナ語はカタカナでいい、インフラクトラクチャーをインフラと言えばいいやみたいなことはあって、日本語にしなくてもいいというのも多いけど、日本語に変えることは意味がある。原題の意味を変えてまでカタカナとかアルファベットで表記するという改変は、本当に本当にやめた方がいいのではないか?それは結果的に作品への冒涜で、それが無意識、無自覚に行われると思うと本当に悲しくなる。

Little Womenとストーリー·オブ·マイライフ

ゼロ・グラビティの話をなぜしてるかというと、最近見た映画ですごい感動した映画が「ストーリー・オブ・マイライフ」。すごくいい映画で、ぼろぼろ泣きながら観た。本当にお勧め。

ストーリー・オブ・マイライフは若草物語の映画化で、厳密に言うと若草物語を描いた女性自身の子供の頃の話が脚色されて、ジョーという女性の主人公で描かれている小説。
この映画はその作品ができるまでを若草物語の中の話を織り交ぜながら描いており、1860年代、日本は幕末、アメリカは南北戦争真っ最中のころに、女性が女性として生きてくことの苦難が描かれてる。大変な時代なんだけど、ちょっと観てると羨ましいなと思うこともある。

映画のタイトルは「ストーリー・オブ・マイライフ -私の若草物語-」。原題は何なのかと言うと「LITTLE WOMEN」うぅ〜ん。
LITTLE WOMENって何なのかと言うと、若草物語の原題でWOMEN=複数形なのが大事。若草物語でお父さんが四姉妹を呼ぶときに”LITTLE WOMEN”と呼ぶことがあるそうで、映画の中でも”LITTLE WOMEN”と呼ぶシーンがある。だからLITTLE WOMENという小説の名前で、それを日本語版にするときに若草物語ってタイトルにした。これはめちゃくちゃアリ。

LITTLE WOMENの一番のポイントは四人だから複数形=WOMEN。描かれているのは少女=GIRL、あるいはLADY。LITTLE GIRLS、又はLADIESと書いてしまうと作者の言っていることがちょっと伝わらない。やはりWOMEN。
女性というものがどういう風に生きるかということを描いているということ、4人のGIRLたちをWOMENと言うのはすごい大事。これを邦題にするときに少女物語とするとやっぱり少女じゃないし、小さい女たちの物語は直訳として合ってるけど味がない、ということで当時の方は女性達を「若草」と例えて若草物語と名付けたんだなと想像できる。

例えば青春という言葉と同じ。夏でも秋でも青春時代の人は青春です。青春の時期というのを青春という言葉で表現するのはメタファーが隠されているんです。
ちなみに秋だと白秋。冬は玄冬、夏は朱夏。青赤白黒の四色で、色と季節をくっつけて季節を表してる。青春時代が何歳から何歳までかというのは置いといて、青春時代を青春と言うことと、Little Womenを若草物語と言うのは同じような意味で翻訳してるんだと思う。それはありだと思う。

Little Womenを若草物語と名付けるのかリトルウィメンでいくのかと思ったら、ストーリー・オブ・マイライフ。ストーリー・オブ・マイライフというのは作中に出てこない。これがまた超いい映画なの。だからまた嫌なのホントに。

すごい感動します。僕は男性なので女性の苦悩みたいなことを本当にわかってるか?というは僕の中でも永遠のテーマだと思ってて、それはいつか本に書きたいし作品にしたいし、なんならここでも語ってみたいこと。ただそれをおっさんの僕が女性について語るというのは相当ハードルが高いし、なかなか文章にもしたためてないし、言語化もしてないし。ときどきトークイベントとか講演で僕のある考えを言うこともあるけど。

この映画に出てくる男性はみんな弱い(笑) 弱い女性も強い女性もいるけど男性は弱い。
監督は女性。だから性別と作品の良さは本当に関係ない。脚本はフランシス派という映画で主演だった女性。だからストーリー・オブ・マイライフでもいいのかな?とも。つまり私の人生のストーリー。

色々邦題を考えたんでしょう。元々Little Womenなんですよ?だったらリトルウィメンでいいじゃない。リトルウィメンだとなぜこの映画にお客さんが来ないと思ってしまうんだろうというのが先のゼロ・グラビティ問題と根は一緒なんじゃないかなと思う。
「女性が自分の人生に悩む、そしてストーリーにするということを打ち出した方が、女性が観たくなるんじゃないですかね?」みたいな。これをマーケティングというとマーケティングに関わってる人が嫌な風に思っちゃったらごめんなさいですが、なんかそういう戦略的なものを感じてしまって、それってそれでいいのかな?

もう一個思ったのが、パンフレットに監督や出演者のインタビューが載ってて、面白くてなるほどなと思う。女性の生き方、生きづらさ、悩みが描かれてるということはすごい意味があるインタビューなんですが、「〇〇よ」とか「〇〇だわ」とか、これ英語でインタビューしてるから、そんな女性っぽい言い方してるかわからない。そいうい俗にいく女性語尾的なものでインタビューに答えてるという翻訳をされてる…これってすごい矛盾を感じませんか?

つまり女性はこう生きるべきだという生き方に息苦しさを感じ、何とか乗り越えようと思ってるストーリー・オブ・マイライフなんだけど、パンフレットの中では結果的に女性は〇〇よ〇〇だわと喋るものと規定して作られてる(笑) そいういうのから脱却することを描いてるのに、パンフレット自体は脱却してない。
ゼロ・グラビティ問題とすごく似てる。この作品の描きたい、言いたいことが、パンフレッットを作った人には1ミリも伝わってないか、百歩譲って、伝わってるけど観客には伝わらないでしょと思ってる。さらに言えばそう言う風な悪意があるならギリギリ認めるんだけど、多分無自覚。

もうそういうのやめましょうよと言うか、なんかそういうことの羅列みたいなことが結果的に息苦しさや閉塞感を生んでるんだと言うことを脱却しようとしている時代に、結果的にそいういう文脈で作品を送り続けるコンテンツ。そういうのって沢山たくさんある。すごく残念。

すっごいいい映画です。いい映画で、泣きながら何回も観たし、本を書くと言うことの素晴らしさというのに気づかせてくれて、書けないとか、締め切りもういいや、と言ってる自分を激しく後悔し、これ観た夜には頑張って書こう!と思う。これは女性とか男性を超えて思うんじゃないかな。

Little Womenがストーリー・オブ・マイライフになってることって、そんな悪いタイトルじゃないところがまた面倒くさい。どっかであったような。それ系の映画ねって見せたいんでしょうね、それ系の映画が好きな層が観にくるから。う〜ん。なんか残念だなと思います。でもいい映画です。という僕の感想を抜きにして観ていただけるといいなと思います。

論文を書くことと本を書くこと

最初に話そうを思ってた論文の教室という本。著者は戸田山和久さん。この本が超いい本ですという話をしたんですけど、消えちゃった。

もうそろそろ修士論文を本気で書かないといけない。この本は僕の指導教官から論文書くときにおすすめと紹介され、速攻で買いました。本当にいい本で、文章っていうのをどう書けばいいのかってことが分からない、迷ってる方はこれ読むと書けるようになると思う。

僕は十何冊本を出していて、その本の中で僕が使う文体って、ちょっと分かりにくいことは畳み掛けるように書いて誤魔化すみたいなことが結構ある。それってある意味確信犯的。確信犯的というのは、そうすることで僕らしさが出るんではないか?と思ってる。それは論文には全く要らないことだと分かった上で、今度論文とかを書くときにはそういうことは全く排して書こうと思ってるわけだけど、それはつまり論理的に書こうということなんだけど、論理的に書けるのかと思ったときに、実は逆で、論理的に書けないからそうやって畳み掛けるように書いて誤魔化してたというのを薄々分かってる。

薄々分かってるけど、面倒くさいのは、そうすることの方が僕らしさが出ていいんじゃないかと思いつつ、ここ数年本を書いてきた。それは自分が思ってることが相手に伝わるんじゃないかと思ってやってきたけど、やっぱり伝わってないこともあるだろうと薄々思いながら、じゃあどうやれば伝えられるのかと思ったとき、この本にはその伝える方法が具体的に書いてある。こういう風に問題をたて、こういう風に説明するときに、この説明じゃなくて、相手にこう説明すれば相手が分かるんだってことが分かる。

やっぱり文章を書くというのは自分、周りの人、第三者も読むってのは、結果的に自分が考えてること思ってることを相手に伝えるということで、それが伝わらなければそんなに意味がない。
インスタとかでこの本を紹介したとき、今までの書き方が間違ってたと痛感しつつ、実は本を書くということは本質的に一緒なんじゃないかと再実感したってことを書いた。論文的な書き方というものは柔道とか弓道のような「型」、道(どう)みたいなものがある。その通りやらない方が良いんじゃないかという反発、型通りではむしろできないと思ってたけど、実は型に則して書く方が簡単だとこの本にも書いてあったし、読んでるとそうなんじゃないかと思わせてもらえた。
だからそういう型で書くって出来ないと思いながら今まで自己流で書いてきたけど、やろうとしてることは一緒だった。結果的には人に伝えたいという思いの中で、その型に合わせて書くということの方が、自分の思いというのがより鋭くより的確に伝わるということに気付かされたということが、僕の中では大きい。

それをやることで角田色が出なくなるのか?角田色は何色か?それが良いのか悪いのか?は置いといて、この型にハマる書き方を覚えたことが僕にとってはプラスになるんではないかと思いたいというか、なんか退屈な文章になったってことは、そもそも僕が言いたいことは退屈だったんだということが炙り出されるのではないかってことに気付かされたので、今のこの時期にこの本を読んだのは本当に良いことでした。

その瞬間を諦めない

最後に話そうと思ってたこと。
本当だったら今日はオリンピック開会式2週間前で、東京は街とか人とかマスコミとか超ざわざわしてたんだろうなと思う。でも今の事態が本当と思ったとき、予想してた未来は大体予想通りにならないけど、それでもその予想外の事態でも、今までなら大概は想定の範囲内だった気がすると書いた。

予想外なことはたくさんある。ほとんど人生なんて予想通りにはならないけど、その上でもその予想はちょっと想定内だった気がしてた。きっとどこかですごい雨が降って災害が起こるだろうな、自分の住んでるとこ、自分の知り合い、あるいは全く知らないところだけど起こる、痛ましいことがあるだろうなとは予想してるけど、ここまで?!ということがポンっと起こってしまうみたいなことって、今回のコロナなんて一番そうで、だから今までは予想外と言いながら想定の範囲内だった、たぶん。

その想定の範囲内じゃないってことに薄々気付かされるってことを思う。それってじゃあどう生きる?僕が書いた文章では、

その都度都度でどう生きるって書いたときに、
そのときやれることをやれる範囲でやる。
そのときやれたことをその都度感謝する。
そのときやれないことをその都度後悔しない。
未来に過度に期待しない。
過去を過度に美化しない。
その瞬間を諦めない。
心地よさを大切にする。
冷静に考える。
妥協しない。
疑心暗鬼にならない。
他者を慈しむ。
自分を蔑まない。
予想外の事態は想定の範囲外|角田陽一郎

と書いた。そんなことを気付かさせてくれる1、2週間だったと思いながら、今日のICUC知的好奇心向上委員会を終わりにしたいと思います。

やっぱり自分が思ったことを伝えるということが結果的に人間社会で生きていく中で必要で、そんなこと誰も理解しなくていいなんて思ってしまえばそれまでだけど、それは結局どんどん自分を蔑んでるんじゃないかと思うわけです。そうすると自分が伝えたいことを他者に伝えるときに、他者に伝わらなくてもいいやじゃなくて、他者を慈しむような気持ちも必要だと思うと、グラビティはゼロ・グラビティって言っちゃいけないし、リトルウィメンはストーリー・オブ・マイライフじゃないし、論文の教室を読むと良いんじゃないかなと思ったっていう話でございます。ではまた来週よろしくお願いいたします。


メモという名の私の感想

邦題問題、映画だけでなく本でも多いですよね。意味を捉え損ねたパンフレットや解説ってほんとに残念。でも、いつだって題が完璧に表現できてるってことも無いかも。いや、もしかしたら、原題より邦題の方が良くなったなんて作品もあるのかも?!例えば小説の映画化をしたら映画の題がダサかったけど、邦題をつける時に、この映画はこの小説が原作だからと、小説の方の代をつけたとか。原題の原題。

結局これも、どうすれば多くの人が観るかの数問題で、伝えたいことは何か?考えられない問題、メタファーが分からない問題のひとつなんだろうな。
ICUC第16回 5/31【数の論理】ICUC第20回 6/28【地味だといけないんでしたっけ?】に繋がる話だと思う。

海外ドラマの字幕の翻訳をされてる方に会えたとき、その方が言うには「字幕はまだしも吹替えになると口に合わせるから超大変」なんだそう。ICUC第15回 5/24【かけがえがある】では、村上春樹さんがご自分がこの本をどう翻訳したか?ってことは"かけがえがない"とだと仰った話を聞けたけど、翻訳には制限が付くことがあるってことは覚えておきたいなと思う。

字幕も、文字を画面左·下·右のどこに出すとか、長すぎると入らないとか、主題歌の吹替えも制約ありそう。そして私のイメージにある若草物語のように、何かしらイメージが先行している場合も制約になるかもしれない。

私にとって若草物語と言えばTVアニメで、その台詞はまさに〇〇だわ!調。それも次女のジョーに一番そのイメージがある。同じ時期のアニメの赤毛のアンにもあるけど。
パンフレットを担当した方々は、私と同い年くらいか(笑)?
インタビューなのに、昔のアニメの世界観に寄せてしまった?さすがにそれは無いか。

ICUCは
一人一人の知的好奇心がくすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心をアップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)

[CAMPFIRE]知的好奇心向上委員会 ICUC

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