掌編小説/読書前夜
読む時間よりも、本を探している時間を愛している。
駅ビルの六階に入っている本屋の文庫コーナーには、ほとんど誰もいない。いたとしても、新潮に一人、河出文庫に一人、ハヤカワのSFや海外ミステリーの棚に一人。
彼は平積みになっている文庫の表紙を眺めながら、文庫コーナーを一周する。平積みになっているのは、新刊や人気作家の小説やエッセイ。
この本屋には毎週来ているので、その景色が大きく変わるわけではない。恩田陸は恩田陸の場所に、先週から変わらず同じ場所にある。フェアが終われば、作家名が書かれた本棚に恩田陸は収められる。そのたびに、誰かの一冊がこの本棚から消えたはずだと思うが、毎週来ているというのに何が消えたのかわからない。
二周目は、気になった本棚の前で立ち止まってみる。左から右に、背表紙のタイトルを追いかけていく。シンセミア砂の女されど修羅ゆく君は六番目の小夜子リア王密室に死す海が聞こえる海が聞こえる——タイトルからどんな内容かと想像しているというよりも、イメージのほうから湧きあがってくるのを待っている、らしい。
彼は一冊の本を棚から引き抜く。おそらくこの本は先週も同じ場所にあったはずだが、先週は手にしなかった。
彼はしばらく表紙を眺めている。青い湖の写真に白抜きで作者名とタイトルが記されている。裏表紙に記載されている作家の経歴とあらすじに目を通すと、もう一度表紙に戻って、タイトルの文字に指を這わせるように見つめる。
彼のこの慎重さはどこから来るのだろう? 先祖か誰かが本によって痛い目にあったとか、そんな忌まわしい過去があるのだろうか?
いくつかのチェックポイントを通過したようで、彼はぱらぱらとページをめくりはじめる。書き出しの二、三行は読んだかもしれない。しかし、それ以降は読んでいるという速度ではない。彼が確認したいのは、文字の大きさ、段落と空白行、ひらがなと漢字の密度であって、その内容ではない。テキスト情報である小説の、その紙面の視覚的美しさに何の意味があるのだろう? と思うが、彼が選んだ本はたしかに美しい。文字と余白のバランス、短くなったり長くなったりする文章の末尾、フォントと句読点の絶妙な間隔。
彼は結局、その本を手にしてレジに向かった。滞在時間三十分。彼にしては短いほうだ。
キャッシュレス決済して、袋は断って文庫カバーはお願いした。
彼は帰宅するバスのなかで、額を窓につけるようにして流れる景色を眺めている。昨日も一昨日も見た風景だ。もしかしたら去年も五年前も前世でも同じ風景を眺めていたかもしれない。信号機の青が赤に変わる。花屋の前で女性が話している。彼女は軒先の百合の花を指さしながら、左の落ちた髪を耳にかける。男子学生二人組が自転車で並走しながら笑っている。背の低い老夫婦が手をつないで歩いていく。
彼はバスのなかで眠る。時間をかけて選んだ文庫本への期待と、今日一日の出来事を反芻するように——
バスに乗っているのは、彼と三十代ぐらいの女性だけだった。女性は斜め後ろの二人掛けの席に座っていて、その隣に体よりも大きなリュックサックを置いていた。
女性はイヤフォンで音楽を聴いていて、音漏れがひどかった。閑散としたバスの車内に響いている。それはこんな歌だった。
彼がマンションの部屋に入るところまで見届けると、わたしは急いで来た道を引き返した。
自宅のアパートに帰ると、鞄から一冊の小説を取り出す。今日、彼が買った小説と同じものだ。
わたしの本棚には、彼がいままでに買った本と同じ本がならんでいる。彼は一週間に少なくとも一冊は本を買うので、一年に五十二冊、十年で五百二十冊——おかげでわたしのアパートの部屋は、その三方の壁を文庫本の背表紙で覆われている。海と毒薬そして誰もいなくなった告白新世界よりノルウェーの森——そういう意味で、この部屋は彼の人生といえるかもしれない。彼の喜怒哀楽のすべてがここに詰まっている。しかし、このままいくと来年あたりには安アパートの床が抜けそうなので、いまは引っ越しを検討しているところだ。
わたしは冷蔵庫から麦茶と、彼がコンビニに立ち寄ったときにひそかに購入した豆大福を取り出して、今日、彼が買った小説のページを開く。
これは一つの実験だ。もしも本というものが人格形成や思考回路の入出力に影響しているのだとしたら、同じ本を同じタイミングで読み進めたわたしたちは、同じ問題に直面した場合、同じ答えを導き出すのだろうか? ふとした瞬間の感情さえ、同じことに苛立ち、同じ景色を美しく感じ、同じ言葉を話しはじめるのだろうか?
わたしは豆大福をかじって、麦茶をコップの半分まで飲む。
至福。
漂う空気が止まるように、読む時間がおとずれる。
(了)
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