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短編小説/イハリ、イハリ、イハリ

 その国には、王様もおらず、指導者もいなかった。所有という概念もなく、通貨もなく、国境も存在しなかった。人々はコカの葉に漬けた林檎を主食とし、眠りたいときに眠り、目覚めたいときに目覚め、喋りたいときに喋った。人々は幸せだった。しかし、わずか三日で崩壊したため、だれも知らない。
 イハリ、イハリ、イハリ。
 プラスチック製の白いガーデンチェアだ。
 肘掛けがあって、放射状にデザインされた背もたれには、大胆な肉抜きが施されている。もっと詳しく知りたければ、ホームセンターのネットサイトを閲覧したらいい。寸法から材質まで、知りたくないことまで掲載されている。注文住宅のカタログでも、それは同じだ。ゴールデンレトリバーがスプリンクラーと戯れている。青々とした芝生に置かれている。たぶん、それと同じだ。
 僕がいま座っているのは、そういうタイプのイスだ。
 僕の目の前には、ひとりの男の子が立っている。ケチャップの汚れがついたTシャツに描かれているのは、NASAの月面着陸。たびかさなる洗濯によって色褪せた宇宙飛行士がこちらに向かって手を振っている。書かれている文字は、ここにはなにもありません。空気さえありません。
 男の子は最初、庭のすみにしゃがんで、指先で地面をほじくり返したり、小石をどかしたりしていた。虫を探していたのか、追いかけていたのか——しゃがんだままのアヒル歩きで移動してきて、その視界に僕の靴が入るところまで近づいてから、ようやく顔をあげた。
 何歳ぐらいだろう?
 立ちあがった男の子の背丈は、それでも座っている僕よりも低い。やわらかい湿り気を帯びた小さな肉塊が服を着ているという感じ。
 男の子は観察するように僕を見ている。
 いや、見ているのかわからない。
 男の子は、頭からすっぽりと茶色い紙袋をかぶっていて、目の部分には二つの穴が開けられているが、その奥にあるはずの視線がどこに向けられているのか。光が届かない紙袋のなかは、空洞のようにただ暗いだけだった。
 ——わたしの子、ちょっと変わってて。
 と友人の奥さんが話していたのが、この子なのかもしれない。
 詳しくは聞いていない。「変わっていて」と卑下する言い方で、子どもの自慢をしたいのだろうぐらいに捉えて、話半分聞き流していた。
「こんにちは」「お名前は?」
 男の子は、僕がいくら話しかけても一言の言葉も発しなかった。
「覆面レスラーかな? そんなのかぶっていて、苦しくないの?」
 たずねてから僕は、男の子が紙袋をかぶっているのは遊びではなく、もしかしたら人に知られたくない理由があるのかもしれないと考えた。たとえば、顔にひどい火傷を負っているとか。生まれつき皮膚が弱く、ぼろぼろになった皮脂が粉を吹いているとか。知らないとはいえ、軽はずみな言動で子どもの心を傷つけてしまったかもしれない。
 と思ったのだが、男の子は僕の前を立ち去ろうとはしなかった。
 どんな表情をしているのかわからない。わからないが、その行動から察すれば、この小さな殺人鬼(凶器こそ持っていないが、アメリカのスプラッター映画に出てきそうな)が僕のことを疎ましくは思っていない、と考えてよいのかもしれない。
 いくら話しかけても反応がないのは同じだった。さっきまでだれかがいた気配を漂わせるカーテンみたいに、男の子はわずかに揺れながら立っている。
 唯一、「なにか話そうか?」と言ったとき、紙袋が、イハリ、イハリ、と音をたてた。

 新しい土地には黄色い砂があるだけだった。はるか昔に死んで、なにかが埋められた痕跡だけがある。
 おびただしい砂の上で重機が、人類と交わることがない時間軸で絶滅した動物のように長い首をもたげている。となりに立つ妻が「空が近いね」と言ったのは、駅からバスに乗って、バスを降りてからさんざん歩きまわり、結局は道を間違えていたことに対する皮肉ではないと願いたい。
 大学時代の友人が家を建てた。
 特別、親しい友人ではない。大学を卒業してから会ったのは数回で、その数回も知人の結婚式や二次会で顔を見かけた程度だった。彼から「家を建てたので、一度遊びに来ないか?」とメールをもらったとき、僕はウイスキーボトルのなかの帆船に記念すべき十三人目になる乗組員を立たせたところだった。
 友人宅には、僕たち夫婦のほかにも、何組かの家族が招かれていた。初めて顔を合わせる人ばかりだったが、女性陣はテトリスするみたいに——相手の凹の言葉にどれだけ早く凸の言葉を発せられるか競争するみたいに喋りつづけた。男性陣は自分の存在意義がわからず、表情がおろそかだった。
 リビングには、フライドチキンの匂いが充満していた。
 自慢料理なんです、と友人の奥さんが大皿に盛ってテーブルに運んできたが、だれひとり、フライドチキンの正しい食べ方を知らなかった。
 勇敢な人間がひとり、手づかみでそれに挑んだ。脂にまみれていく指と唇、汚らしい咀嚼音、白日の下にさらされる鶏の残骸——それで決まりだった。だれも原始人になりたくなかった。
 カルチャースクールでキルトを習っているという奥さん(この辺境の地のいったいどこに? とだれもが眉を顰めたが、軽自動車を運転して三十分のイオンにそうした教室があるらしい)の趣味なのか、家の随所にはこだわりが透けて見えた。

 紙袋をかぶった小さな殺人鬼は、そのうちのだれかの子どもなのだろう。(そういえば、友人の子どもは集団恐怖症らしく、今日は自室に閉じこもって枕とぬいぐるみの揉めごとを仲裁中、と友人の奥さんがもしかしたら違う言葉をつかって話していたかもしれないが、少なくとも僕はそう理解した)
 連れられてきた子どもは何人かいたが、年長の子が「探検に行こう」と言い出して、それきり戻ってこない。
 紙袋をかぶった男の子は誘われなかったのか、僕の前に立って、僕がする話を聞いている。あいかわらず一言も喋らなかったが、それでも話の最後には、イハリ、イハリ、と紙袋が音をたてた。それがこの子の笑い声なのか、息を吸ったり吐いたりしたときに発せられる音なのか、そこまではわからなかった。
 僕はいくつかの話を男の子に聞かせた。
 九月の少し早まりはじめた日没が近づいてくると、これがおそらく時間的に最後になるだろう次の話を考えはじめた。
 女の子がハンバーグを食べている。ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』みたいに、ハンバーグには宇宙からの未知なる微生物が含まれていて、それを食べた女の子は美しい妄想に憑かれて狂い死ぬ——とアイデアが浮かんで、細かい設定は決まらないまま、フライング気味に喋りはじめた。
 結論からいえば、その話は不要なエピソードを膨らませすぎて、増改築を繰り返したお化けみたいになった。

 ハンバーグがちゃんと焼けてるか確かめる方法、知ってる? 竹串で刺してみるんだ。痛いって言ったら、まだ生きてるからね。

 ハンバーグが伴奏で、女の子が主旋律だった。町のはずれにある廃屋がその舞台。
 廃屋になる前は、きっとだれかが住んでいたのだろう。それは宣教師として移住してきたアメリカ人夫婦だった。つつましやか生活を送り、大麻とウーバーイーツがあれば他にはなにもいらない、と夫婦はつねづね語っていたが、二〇一八年六月、夫婦そろって消息を絶ってからは空き家になっていた。
 女の子は、僕の解釈によれば、彷徨えるヒッピーだった。たったいま狂乱の夏から逃げ出してきたように見えたし、ハーメルンの笛吹き男の集団から意図せずはぐれた迷子のようにも見えた。
 どこから来たのかは知らない。
 いつ、女の子がこの町に来たのかのなら知っている。
 それは記録的な大雨の日だった。水浸しになった道路を歩く女の子のすがたを、複数人のトラックドライバーが目撃した。フロントガラス越しに見える女の子は雨粒のなかで歪み、泥水を蹴るようにして歩いていた。びしょ濡れになった髪は頭蓋骨のかたちにへばりつき、すきっ歯の前歯からは白く煙った吐息がもれていた。
 次に目撃されたのが、最初に目撃された地点から五十メートル離れた道路標識の前。
 右に行けば湿地。まっすぐ進めば、およそ二十キロのところに次の町があります。たぶん。
 最後に目撃されたのが、町のはずれにある廃屋の軒先で、長く伸びた髪を搾りながら雨宿りしているすがただった。

 ビクトル2号だ。
 品質証明書に記載されていた牛の名前。


 これは女の子の物語。僕が話して、紙袋が聞いている。
 朝九時に目を覚まして、夜九時に眠る女の子が翌朝九時にふたたび目を覚ます。毎日お腹を空かして決まった道を歩き、鎖につながれた犬に毎日違った名前をつける。その犬は昨日はカンパーニュだったが、今日はロメオだ。
 町の人々は廃屋に住みついた女の子を訝しがった。というのは、もしかしたら消息不明のアメリカ人夫婦となんらかの関係があるのでは? と疑っていたからである。
 それでいて町の人々は関心がないふりを装った。事件が明るみになれば、首を絞められるのは自分たちだ。夜の墓場を掘り返すことになりかねない。しかし、なかには罪悪感に苛まれる人も出てくる。
「忘れられない、っていうのは悲惨だね」
 パイプ椅子に座ってうなだれている彼に、町の衛生局員は優しく語りかける。衛生局員が着ている制服は毎日違った匂いがする。昨日は柴犬だったが、今日はシベリアンハスキーだ。「さあ、洗いざらい喋れよ」
 先週は下水道の掃除をしていた。衛生局員の制服には、黄ばんだ悪臭が纏わりついている。
「遠慮はいらない」
 それで男は喋りはじめる。衛生局員は事務机に肘をついて、顔の前に組んだ両手の隙間から、よく動く男の口が閉じるのを待つ。
 しばらくして、女の子がアメリカ人夫婦と一切の関係がないことがわかると、町の人々は糸が切れたように興味を失った。その間、行方不明になった人が数名、アメリカ人夫婦失踪事件の真相もわからぬままだった。

 衛生局員はウインクしたが、女の子はそれには気づかなかった。

 十二月の底冷えする冬のことだった。
 車のドアが開け閉めされる音が響いて、廃屋の全体が大きく震える。
 玄関のドアが騒がしくノックされて、女の子は脳内再生していたドラマを一時停止した。ふたたび車のドアが開け閉めされる音が響き、車の排気音が遠ざかっていくのを確認してから、女の子はおそるおそる玄関のドアを開けた。そこには差出人不明の荷物が残されている。
 女の子は荷物をテーブルの上に置くと、いつもの位置に腰かけて、床に届かない足を揺らしながら脳内ドラマに耽った。
 それは町の人々がひとりずつ死んでいくサスペンスドラマだった。
 それに飽きると、ようやく荷物の包装を破りはじめた。女の子は目を丸くした。包装紙を破いた先に出てきたのは、証明書付きの高級牛肉だった。
 いったいだれが?
 と女の子が考えたが、もちろん思い当たる人物は浮かばなかった。
 重要なのは、と女の子はさらに考えた。(女の子は生まれて初めて妄想ではなく現実を直視した)いまここに、牛肉がある事実だ。
 その夜、ナイフとフォークを握りしめた女の子の影がずんぐりとした撫で肩になって映っていた。蝋燭の光のなかで、ビクトル2号(牝三歳)は金色に輝いている。牛肉を食べるのは久しぶりだった。
 異変に気づいたのは、翌朝目覚めたときだった。女の子の奥歯はメトロノームのようにリズムを刻み、細胞のひとつひとつが自分勝手に覚醒し、わがままな魂を宿した音楽家の亡霊のように反発しあっていた。
 音楽家たちは終わることがない論争を繰りひろげた。女の子は、自分のからだが断片化された楽譜になって、雪を含んだ空にひらひらとばら撒かれてしまいそうだと感じた。
 それは、たしかに音楽だった。
 女の子の大腸で一晩かけて熟成し、血液に溶けだした音楽は、翌朝には彼女の全身を蝕んでいた。心臓の大動脈弁から足の指の先まで、音楽が蔓のように巻きついていた。白血球と赤血球に跨って進軍する音楽は、いまでは彼女の脳みそに達しようとしていた。
「彼女が食べたのは」と僕は言った。
「音楽の牛だったんだ」
 ある牧場では、胎内にいるときから音楽を聴かせて牛を育てていること。そうした環境で育てられた牛のなかには、音楽の才能に目覚める牛もいること。人類がいまだ知らない音楽の可能性を秘め、歴史にその名を刻むほどの才能に恵まれながら、だれからも気づかれることなく食肉にされること。そうした牛肉を食べた場合、ごく稀に、ではあるが、音楽に感染してしまうことがあること。
 音楽に感染したらどうなるか?
 人生が可聴化される。
「狂音楽病というらしい」
 僕はこの場面をたっぷりと三十分はかけて、男の子に説明した。
 男の子は依然として黙ったままだった。紙袋の奥にあるはずの目がどこに向けられているのかわからず、また、僕が話しているあいだは紙袋が鳴ることもなかった。時おり吹く風にあおられて、ぺこぺこと凹んだり膨らんだりを繰り返していたが、そのときには不思議と音はしなかった。
 話しながら僕は、この子はいまからどうやって生きていくのだろうと考えた。
 紙袋は目の穴こそ開いているが、鼻はなく、口もなく、僕の声に反応しているので耳は聴こえているのだろうが、もしかしたら言葉ではなく、音として聞こえているだけなのかもしれない。僕の声が音像的に、この子にとっておもしろいだけで。
 知性はあるのだろうか?
 感情はあるのだろうか?
 この子もやがて大きくなって、だれかと笑ったり、どうでもいいことで喧嘩したり、どうでもよくないことで戦わなかったりするのだろうか?
 それから僕は、男の子の背景にある、ひいては母親について考えはじめた。
 文明の行き止まりは、東の端が日本で、西の端がアメリカ西海岸だと聞いたことがある。文明がシルクロードを渡って町から町へと伝えられていた時代の話だ。当時読んでいたカルチャー誌に書かれていたのかもしれない。とにかく、もう何年もアップデートされていない古い知識だ。
 現在はどうなのだろう?
 文明も宗教もデジタルになって、シルクロードのラクダが運んでいるのは、いまでは武器と麻薬の密売だけ。
 おそらくは母親なのだ。
 世界じゅうに張りめぐらされたネットワーク。細分化された流行とNETFLIXの本当のターゲット。迷走する政治。企業からこぼれ落ちたお金の経路。
 その行き止まり。
 世界各地から発信された情報がネットワークを通じて、ダイニングに置かれたノートパソコンに蓄積される。政治と経済の失敗は、それでもこの社会がなんとか持ちこたえているのは、どこかのだれかが優秀なわけではなく、母親がスーパーマーケットで帳尻を合わせているからに過ぎない。洗濯物をたたむ手を休めて、乾燥機から取り出したばかりのタオルの温もりに頬をうずめる。横目で眺める昼間のワイドショー。マンションから幼児の遺体が発見されました。年老いた両親を殺害して、増税が決まりました。この星はもうダメかもしれません。
 我が子は今日も紙袋をかぶって、マンションのベランダにいて、物憂げな風に吹かれている。その魂は行方知れず。

 ビクトル2号? ああ、あいつは音楽に愛されていたよ。

「狂音楽病に効く薬はまだ開発されていないんだ」と僕は言った。
「助かる方法はなくて、狂音楽病になったら、死ぬまで踊りつづけるしかない」
 僕は、女の子が狂音楽病になった時点で、おそらくこういう結末しかないだろうと予感していた。女の子は従順に、そのあらすじ通りに動いてくれたといえる。そして僕自身もそのあらすじを概ねで認めていた。しかし最後にいたる場面が近づいてきて、それをどうにか変えられないものかと悩みはじめた。
 助かる方法はいくらでもあったのかもしれない。都合よく狂音楽病の特効薬が見つかるとか、天使の接吻で目を覚ますとか。ハッピーエンドはむりでも、よだれを垂らしながら巡礼の旅にでも出たほうが、よっぽどましだったのかもしれない。
 それなのに僕は、頑なに間違いを認めない老人のように(なにかを失うわけでもないのに)、想定していたあらすじを結局はそのまま喋りつづけた。

 死んだ。
 死んだ。
 町の人々は囁きあった。

 女の子の足音はピアノになった。鼻息はトランペットになって、窓ガラスを震わせた。まばたきはコンガになって、アフリカ先住民の陽気なリズムを打ち鳴らした。
 女の子は楽しくなって、町に飛び出して踊りはじめた。ステップを踏むたびにさまざまな音楽が——サンバやジルバやクラシックがあふれ出した。女の子は社交ダンスの優雅な身のこなしでターンして、鼓笛隊の人形のように行進し、またあるときには、スノードームのなかで密やかな愛を誓い合う二人のように舞った。
 奇しくもクリスマスだった。町には買い物を楽しむ人々であふれていた。もしくは外食を済ませた人々が大きくなった下腹を撫でながら歩いていた——の視界に、狂音楽病に感染した女の子のすがたが映った。だれもが思わず目を背けた。だれだって、自分の幸福な一日が彼女の不幸につながっているなんて考えたくなかった。
 しかし音楽——彼女の全身から発せられる音楽からは逃げることができなかった。ルンバなのかビバップなのかトランスなのかわからない音楽が人々を襲った。それは黒ずんだ音の洪水だった。鼓膜から侵入し、聴いた人々の深層に、短いフィルムが永遠に繰り返される悪夢のように彼女の人生を植えつけてまわった。いまではだれもが、彼女がどのように生まれ、どのように育ち、なにを考え、なにを考えず、なにが起こって、なにが起こらなかったのかを知っていた。
 先ほど食べたばかりの七面鳥を吐き戻す人もいた。吐瀉することで身を守ろうとする珍しい動物のように憐れだった。
 銃声が鳴り響いたのは、第一報が届けられてから、じつに六時間が経過した午後八時のことだった。
 震える手で拳銃を握りしめていたのは、町の衛生局員だった。
 手が震えているのは恐怖ではない。不条理に対する怒りだ。
 衛生局員は、町の汚れ役だった。町の人々の苦情をひとつひとつ解決していく。下水が詰まったと連絡が入れば、スコップ片手にマンホールに潜りこむ。犬を持て余していると言われれば、ペットケージを携えて引き取りに行く(衛生局員は、犬は殺していなかった。書類上は処分したと報告していたが、町の西側にある湿地に放していたことだけ追記しておく)。あの人が喋りそうだと噂になれば、その口を噤む(こちらは殺していた)。
 そのくせ町の人々は、衛生局員のことを忌み嫌っていた。彼のまわりには下水や動物や人間の匂いがごちゃ混ぜになって、いつも死臭が漂っていたからだ。同様に町の人々から泥臭い、黴臭いと言われて排斥されている女の子に対して、彼は人知れずシンパシーを抱いていた。
 クリスマス——女の子が住んでいる廃屋に高級牛肉を届けたのも衛生局員だった。もちろん、それが音楽の牛であることは知らなかった。知っていたら、もしも知っていたら、だれがそんな仕打ちをしただろう! しかし、だれにも彼を責めることはできないのだ。通常の牛と音楽の牛を見分ける方法はいまだ確立されていないのだから。
 衛生局員は自分の罪深さを呪った。
 死を告げる銃弾が、女の子のこめかみを貫いた。
 連休で賑わう繁華街、そびえ立つイルミネーションの高城。
 それが女の子が見た最後の景色になった。

 後ろから肩をたたかれて振り返ると、妻が立っていた。
 顔を戻すと、男の子はいなかった。風に運ばれてきたらしい茶色い紙袋が芝生の上に転がっているだけだった。いずれピザ釜でも作るつもりなのか、積みあげられたレンガに引っかかって、風が吹くたびに、イハリ、イハリ、と音をたてた。それはケンタッキーフライドチキンの紙袋だった。
 帰り道は、電車に揺られながら少し眠った。
 眠っていたのはどれぐらいの時間だったのか。目を覚ますと、車両にいる全員が眠っていた。それは偶然だと思うが、子どものころ、放課後に唱えた魔法がいまさらになって効いてきたように思えた。
 僕たちは経験できなかったなにかに囚われている。それはテレビドラマや映画や人々の祝福のなかに潜んでいて、ふとした瞬間に毒づかれる厄災のようなものだ。
 僕は、となりで眠っている妻を起こさないように首をひねって、後ろの車窓から外の景色を眺めた。窓には半透明になった車内が映っていて、僕の顔の奥(実際には僕の前の席に座っている)女性が、茶色い紙袋を抱くようにして眠っているのが見えた。それはマックの紙袋だったが、色とかたちはあの子そっくりだった。
 僕はくすっと笑って、だれにも聞こえない声で話しかけた。
「まだ、お話聞きたい?」
 すると、マックの紙袋が、イハリ、イハリと音をたてた。

 女の子はむくりと起き上がった。その目は紫色に光り、すでに死んでいる手足は灰色に腐りはじめていた。こめかみからは黒い血が流れていたが、女の子はまだ自分が死んでいないと考えた。死んでいないと考えれば、死んでいないような気がした。
 それは奇跡だった。
 衛生局員が放った銃弾は、女の子の右のこめかみから侵入し、女の子の脳内でいままさに最高潮を迎えようとしている狂音楽病——ビーグル犬のような髪を振り乱して恍惚のなかにいる指揮者の心臓を貫き、女の子の左のこめかみから飛び出した。
 最後、タクトの先端が向けられていたのはティンパニーだった。最後の瞬間、ティンパニー奏者は、指揮者が笑ったように見えたと述懐する。(おまえだけテンポがずれている)あおむけに倒れていく指揮者、騒然とする音楽ホール、観客席が明るくなり緊急事態を知らせるアナウンス。
 音楽は終わった。というか少なくとも、女の子は解放された。
 衛生局員が近づくと、女の子は四つん這いになって退いた。それから憎しみの鉄槌を与えた。衛生局員のからだは賽の目になって切り裂かれ、内部から重力が加えられたように肉体が捲れたのち、蓮の花が開くような音をたてて血飛沫をあげた。
 町の人々が女の子を取りかこんだ。
 女の子は四つん這いのまま跳ねあがると、次の瞬間にはデパートの屋上にいた。隣接する屋根から屋根へと飛び移り、やがて夜の闇に消えていった。そのすがたは——呆然として空を見あげる人々、太った母親のスカートの下から覗き見していた少年の網膜に、邪悪でありながら美しく儚く焼きついた。
 イハリ、イハリ、イハリ。

(了)


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