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短編小説/幽霊屋さん

 窓ガラスには河瀬の顔が映っていた。
 半透明になった彼女の顔の向こうに、アスファルトの道路が見える。午前中から降りはじめた雨は深夜になっても降り止まず、天気予報を見ると来週まで雨だった。
 雨に濡れたアスファルトは、その表面を水の膜に覆われて、生物めいた光沢を放っていた。アパートの前には都市高速が走っており、高架下の中央分離帯には金網に囲まれた空き地が見える。何もない場所を街灯の光が照らしている。
 視線をやや上にすれば、都市高速の街灯も見えた。あれは道路を照らすために設置されているのだから、道路照明灯と呼ぶべきなのかもしれない。防音壁から突き出したその先端部が等間隔に並んでいる。投射された光が三角屋根のテントみたいになって連なっている。その光のなかにだけ、降り続ける雨の筋が見えた。
 雨を見よう、と言い出したのは河瀬だった。本意はわからない。午前二時を過ぎ、そろそろ寝ようかという時分だった。アパートの二階にある部屋の灯りを消して窓辺に立つと、僕と河瀬の視覚神経が研ぎ澄まされ、そのほかの部位、鼻や耳や手足は失われて、たたずむ四つの眼球だけが夜の闇に浮かんでいる気がした。昼間に安っぽいホラー映画を観たせいかもしれない。町の人が消えていく。町のいたるところには、先ほどまで誰かが着ていたと思われる衣類が筒状になって残されている。犯人は動物実験場から逃げ出してきた猫だった。
 そういえば薮に潜む、姿の見えない猫にちょっかいを出して、河瀬は手の甲を引っ掻かれたことがある。翡翠色の目が光り、ニャアッ、と短い声を発した後、草木をがさがさと鳴らしてアスファルトの道路に飛び出すのが見えた。黒に茶色が混じった野良だった。
 彼女はなぜか嬉しそうに血が滲んだ傷痕をしばらく眺めていた。化膿して、黄ばんだ粘液の縁取りができた。サンダルで出かけてもまだ寒くない秋の終わり頃だったと思う。結局は病院に行った。二度ほど通院しただけだったが、そのうちの一度は僕も付き合った。彼女を心配して、というわけではなく、退屈していたというのが理由だ。

 路線バスで四十分。もっと近くの病院があるはずだったが、彼女がネットで調べて決めた。この町に移り住んで十年になるが、いまだに土地勘がない。駅や大学周辺の行ったことがある場所が、地図ではなく、浮島のように頭のなかに点在している。河瀬とは大学で知り合った。都道府県の名を冠した大学だったが、在来線を乗り継ぎ、中央の駅から一時間はかかるという利便性の悪さだった。そのせいか、大学の人間と仲良くしようという気が起こらず、友人はあまりに少ない。河瀬とは同郷だったこともあり、情報交換するうちに親しくなった。彼女は在学中から僕のアパートに泊まっていくことがあったが、卒業し就職してからは僕のアパートから出勤するようになった。
 駅前の大通りを左折して赤い橋を渡ると、路線バスは旧道と思しき道を走りはじめた。道幅ぎりぎりに民家や個人商店が建ち並んでいる。灰色のシャッターが閉じられ、店名を記した軒先テントが長年の陽射しに溶けて、どの店も無惨な骨組みを晒している。帽子屋だったらしい建物の二階に、積み上げられた帽子が曇りガラス越しに見え、退廃的な滑稽さというものがあるとしたら、あ、ぼうし、と言って河瀬は笑った。
 乗客は少なく、途中のバス停で下りた、薄茶のカーディガンを羽織った女性のエコバッグに「DEAN&DELUCA」の文字が書かれているのが見えた。
 いったいどんな気持ちなんだろう? と僕は素朴な疑問として言った。ハイブランドはなんとなくわかるんだけど。
 同じじゃない? わたしはこういう人間です、っていう意志表示。
 わたしは「DEAN&DELUCA」みたいな人間です、ってこと?
 そう、わたしは厳選された食べ物しか口にしないので、優れた子どもを産むことができます、みたいな。
 しかし僕が本当に訊きたかったのは、そういうエコバッグを持って地域のスーパーマーケットに行く女性の神経だった。
 路線バスは旧道を抜けると、川沿いの道を進んだ。窓側に座っている河瀬は頬杖をついて、広い河川敷を眺めていた。風化し円磨された石の隙間からススキの穂が靡いている。バスの乗客は僕ら二人きりになり、スマホで現在地を確認すると、目的の病院はまだ先にあった。僕は河瀬が履いているデニムの腰に指をかけた。彼女が何の反応も示さないので、彼女の下腹部を押すようにして、そのままデニムのなかに手を滑らせた。
 するの?
 まさか、と僕が笑うと、彼女は視線を車窓に戻した。
 下着のなかは蒸していた。窮屈なデニムに手が詰まり、ようやく指先が河瀬の陰毛を撫でているだけだった。ざりざりと固いブラシのような感触がある。河瀬が何も言わず、デニムのボタンをはずした。顔は車窓に向けられたままだった。
 奥に進んだ指が彼女の粘膜を探り当てた。濡れてはいないが、湿り気を帯びたやわらかな肉が捻じれている。二本の指で押しひろげて、肉襞にそって指の腹を這わせる。手首を鉤状に曲げて指の角度を変えると、奥で何かが開くように蠢いて濡れはじめた。
 気持ちいい?
 いまはいいけど、たぶん後で気持ち悪い。
 どうして僕がこんなとりとめのない記憶を思い出しているかというと、これがおそらく河瀬の粘膜に触れた最後だと思うからだ。

 雨粒が窓ガラスを流れていく。
 雨を見ようと河瀬が言ってから、僕たちは黙りこくっている。アパートの部屋には雨音が響き、それはしとしとと情緒ある響きではなく、落ち着きなく騒がしい。空洞化したアパートだ。雨音があちらこちらで反響し、増幅し、部屋の空気を満たしている。外に何があるのか、コン、カン、コン、と破綻した鼓笛隊のような、一人辞め二人辞め、最後に残った子どもが虚しく叩くブリキの太鼓のような金属音も混じっている。
 アパートの部屋の床には、窓枠のかたちをした光が落ちていた。脱ぎ散らかした衣類やゲーム機のコントローラーや漫画本が興味を失った、それらは以前大切なものだったように感じられる。
 そろそろ眠ろうかと言いかけたとき、河瀬がスマホを取り出して、自分の顔をライトで照らした。
 窓ガラスに、モノクロに変換された彼女の顔が映った。眉間に皺を寄せて、猿みたいに歯を剥き出して嗤っている。
 怖い?
 怖いね、と僕は笑った。
 やってみて。
 それで僕も自分の顔をライトで照らした。暗転した舞台で語る怪談師のように自分の顔が窓ガラスに浮かび上がる。休日は髭を剃らないので、口まわりの髭がわずかに伸びている。映っているのが自分の顔に思えず、鼻の下を撫でてみる。当然なのだが窓ガラスに映った自分も鼻の下を撫でて、自分の顔なのだと思う。同時に、ゼロコンマ何秒よりも短い光の速度で、ずれが生じているような違和感は拭えない。
 驚くかな? と河瀬がたずねてくる。
 河瀬の企みに気づき、驚くだろうね、とこたえる。
 企みというほどではない。アパートの前を通る車の運転手、もしくは歩道を歩く人が窓ガラスに映る自分たちに気づくのを待つだけだ。真夜中におとずれる幼児性と呼ぶべきか、河瀬はこの時間帯になると急に知能が低下するわけではないだろうが、子供じみた行為に取り憑かれることがあった。たとえば、僕が履いてるスウェットのパンツを躍起になって脱がせようとしたり、謎設定のコントをはじめたり、僕が歯磨きしているところについてきて、ここに吐いてください、と両手を差し出してきたり——それはおそらく『どろろ』の母親が素手で熱い粥を受け取る場面の再現で、あれは「火傷してしまう」と口では言いながらも実行するあの坊主こそ鬼畜ではないかと思うのだが、何が河瀬をそんな気分にさせるのか、理由をたずねても教えてはくれないだろう。たとえば今夜、窓辺の幽霊を演じて誰かに目撃されることを待っている、ひどく受け身なこの企みが成功したとして、彼女はほくそ笑む。それで何かが変わるわけでもない。逆か? 何も変わらないことに——この戯れが自分の人生に何ら影響を与えないことに、彼女は安堵したいのかもしれない。

 車も人も通らなかった。
 スマホライトを消して、窓ガラスに額をつけるようにして外を覗きこんだ河瀬が、通らないね、と見たそのままを口にする。コンビニや牛丼チェーン店があるわけでもないこの通りは、午前二時を過ぎれば閑散としている。絶えず観察しているわけではないが、この時間に人が通ることは稀だった。話は前後するが、河瀬が手の甲を野良猫に引っ掻かれ、病院に向かう路線バスのなかで彼女の粘膜を撫でまわした後も、僕たちはセックスをしなかった。いまにして思えば、病院のだだっ広いトイレでコンドームの無い射精をすることは可能だったと思う。コンサートホールのような真新しい総合病院で、トイレも清潔だった。しかし彼女はそのまま病院の受付に進み、僕は併設されているコンビニに向かった。元より性欲からの愛撫ではなかった。
 職場に向かう電車に揺られながら、隣に座っている男女の会話を一日のプロローグとして聴く。相手を愛していなければ、その声を黙らせるために首を掻き切られても仕方がない会話だ。
 この男女が何によって結ばれているのか考えてみることがある。

 あ、と河瀬が声をあげる。
 車が来たのかと思ったが、人だと言う。
 見るとたしかに人影がある。車道脇の歩道をこちらに向かって歩いてくる。まるで歩く人を映した幻燈のように、同じ場所を足が滑っているように見える。それでも確実に、ゆっくりと近づいてくる。街灯の靄がかった光の下を通るとき、さしている傘の生地が赤色とわかり、女性かもしれない。
 僕と河瀬は悪意のない窃笑に襲われ、それを噛み殺して窓ガラスに無表情な死人の顔を向けた。もしもこの企みに問題があるとしたら、ライトをつけると、外の様子を把握しづらいということだった。異なる時間を一枚のフィルムに焼きつけた多重露光のように、夜の雨やアパートの部屋や僕と河瀬の顔を映した窓ガラスは混迷を極めている。そろそろアパートの前を通るかもしれない。もしかしたら、すでに気づいたかもしれない。
 と思う頃になって、女性の悲鳴が聞こえた。それは鼓膜を劈くような、車に轢かれた猫が最後に見たヘッドライトの惨劇になって僕の心臓を収縮させた。
 あわてて窓の下を覗きこむと、雨のなかに人が倒れている。やはり女性だ。サスペンスドラマで見る崖から転落した死体のように仰向けに倒れ、スカートからはみ出した両足を「く」の字に曲げている。長い髪が顔に覆いかぶさり、その傍に赤い傘が転がっているのが見えた。
 河瀬が何か言ったかもしれない。しかしその声を言葉として理解できず、僕はサンダルをひっかけて外に出た。
 雨が降っている。それは知っていたが、歩道に倒れているはずの女性が消えていた。自分が見たものは何だったのかと困惑し、しかし河瀬も見たはずだから幻覚ではないと思う。歩道に立ち、位置関係を確認するためにアパートの自分の部屋の窓を見上げる。すると、河瀬がそこにまだ立っている。自分の顔をライトで照らし、無表情な死人の目をして僕を見下ろしている。

 頭を叩く雨が騒がしい。流れ落ちる雨が鼻筋を伝って、唇を濡らす。微かに雨の味がする。
 あたりには異臭が漂っていた。噎せ返す、肺にこもる臭いだ。悪霊が姿を現す前、どこかから腐臭が漂ってくるという。それは女性が倒れていたと思われるあたりから強く感じる。
 自分だけビニールの透明傘をさして、後からアパートを出てきた河瀬が、僕に対して何か言うかと思ったが、何も言わなかった。女性が消えていることに対して驚いた様子もなく、現場検証する鑑識のように腰をかがめて歩きまわる。スマホライトで地面を照らし、レンガ模様の歩道の溝に雨水が流れているのを知る。何を探しているのかわからない。いや、いまは河瀬のことより消えた女性の行方だ、と思うが何をしてよいのかわからず、呆然と立ち尽くす。
 河瀬が歩道にしゃがみこむ。スマホのライトを当てて、何かを丹念に観察している。近づき、彼女の肩越しに覗きこむと、彼女の足元に膜を張ったゼリー状の物体がある。干潟に残されたクラゲのような、ライトに照らされてその中身が透けて見える。濃度の異なる黄色い液体が濁りながら煌めいている。雨に濡れて、その温度を示す湯気が揺らいでいた。
 これは? と思わず口にする。
 僕の脳裏にあったのは、何らかの生命体の残骸だった。手も足も何もない蛭子。もしくはテレビのドキュメンタリーで観た、牛の胎内から羊水とともにずり落ちる胎盤——と考えると、あたりに漂う悪臭も牧場で嗅ぐ家畜の臭いに似ている気がした。
 河瀬はすぐには応えなかった。時間をとって、その物体を様々な角度から検分した後、話すことで自分の推理を再検証しているみたいにぽつりぽつりと喋りはじめた。
 おそらくまだ生まれたばかり。本人も気づいていなかった。自分の気持ちに気づいたのはごく最近……いや、気づかないふりをしていた。それはすでに自分の手に負えないほど大きくなっていたのに。年齢は二十代前半。ようやく会社勤めにも慣れて、周囲を見渡せるようになった獅子座のA型……もしかしたら天秤座かもしれない。たぶん獅子座。
 これは? と僕はもう一度たずねる。
 寝ても寝ても冷めない想いが煮凍りみたいになったもの、と河瀬はこたえる。
 それはつまり?
 恋ね。
 それから振り返り、ねえ浮気してる? とたずねてくる。
 ビニール傘の向こうから僕を見上げる河瀬の顔が歪んで見え、しかしすぐに振り返った顔を戻して、それがレスを求めない質問だったということがわかる。
 ビニール傘の表面が雨を弾くのを——透かして河瀬の見慣れない頭頂部を、僕はしばらく眺めていた。思い当たる人間がいないわけではなかった。いや、浮気しているという意味ではなく、僕と河瀬の関係に「浮気」という言葉が適用されるのかは甚だ疑問だが、むしろそれは恋愛感情となる前の、意思疎通も何もない、おこがましい予感と言うべきものだった。
 伊藤さつき。
 新卒の今年入社で、僕と同じ部署に配属された。長い黒髪の腫れぼったい唇をしている。典型的な美人ではないが、自分が何をすれば可愛く見えるか熟知しているような、と言ったら彼女に叱られるかもしれないが、仕事をしていて視線を感じることがある。モニターから顔を上げると、視線をそらす伊藤の顔がある。
 何度か飲みにも行った。二人きりではなく、歓送迎会や現在進行しているプロジェクトのマイルストーン、つまりは勤務時間の延長としてだが、彼女は僕の隣に座りたがり、サラダや唐揚げを取り分けた。
 酔いが深くなると、伊藤はプライベートな性生活を赤裸々に語った。「すごい気持ち良くて、わたし、ホテルのベッドでおしっこしちゃって」
 彼女がどんな考えで、僕にそんな話をするのかわからない。いや、同僚たちもいる席での会話だ。下卑た笑いやひやかしの声があがる。それがなぜか自分に対して言ったのではないかという気がする。少し八重歯の口元を隠して、この暗号を解いてください、と謎めいた視線を投げかけてくる。
 肉体的な接触はないが、伊藤を想って自慰をしたことがある。女性の悲鳴がフラッシュバックして、実際には目撃していない伊藤の顔が——髪を逆立てて断末魔の悲鳴をあげるその表情が脳裏に焼きつく。熱く、彼女の体内を通過したばかりの小水の臭いがあたりに漂っている。
 死んでる?
 もう死んでる。
 それから河瀬は、報われぬ恋は可哀想、と口では言いながら、あきらかに汚いものを処分するように靴の側面で引きずっていった。歩道の脇へと運び、雨水が流れこむ排水の穴に落とす。
 落下し、暗渠を流れる水面で割れる音がした。

(了)


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