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掌編小説/裸族

 私は裸族である。
 四十二歳、妻子あり。

 家では隠れ裸族である。風呂あがりに上半身裸でうちわを扇いでいるだけで、妻には露骨にいやな顔をされる。娘はこれみよがしに嗚咽し、頼むから消えてくれと懇願してくる。家には解放できる場所がない。

 会社の都合で出張が多い。月曜から金曜まで出張で、土日を家で過ごし、また月曜の朝から出張に行くケースも少なくない。目的地は本社のある大阪で、そんなに出張があるなら引越したほうがよさそうだが、繁忙期を過ぎると本社に行く必要がなくなるので、こういう生活が続いている。

 午後八時、ビジネスホテルにチェックインする。
 部屋のドアが閉まる前から、ベルトに手をかける。腰を振ってスラックスをずり落としながら、ワイシャツのボタンをはずしていく。汗で湿った下着を脱いで、最後にくしゃくしゃに丸めたパンツを壁に投げつける。
 部屋のドアがゆっくりと、ガチャと冷たい金属音をたてて閉じるころには、真っ裸になった私がいる。

 ——ああ、これが私だ!

 ほんとうの自分を取り戻したような気持ちで、缶ビールのプルタブを引き抜く。

 そのあとはずっと裸で過ごす。ソファの素材感がダイレクトに伝わってくる。ベッドに寝転がって、白いシーツの肌ざわりを全身で感じる。なにより下腹部の締めつけがないのが素晴らしい!

 シャワーを浴びたあとは、冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出して、ホテルの窓に近づいていく。
 窓には、遮光性の茶色いカーテンがかかっている。このビジネスホテルには何度も宿泊しているので、カーテンを開けたときの風景もわかっている。眺めはよくない。目の前には別のホテルがあって、その窓とベランダがならんでいる。左右を見まわしても高層ビルに囲まれて、無機質なコンクリートと窓ガラスしか見えない。

 ——それでも、窓を開けたときの解放感ときたら。

 フィルター無しで世界とつながる。ぬるま湯みたいな夜風が、私の平坦な顔を撫でていく。時おり聞こえるバイクの排気音は、先ほどまで自分もいた俗世との距離をますます遠く感じさせ、私という存在が溶け出して、輪郭のない夜の一部になったような高揚感に包まれる。

 私はカーテンを開けて、
 ——えっ、
 すぐに閉めた。

 先客がいた。
 目の前のホテルのベランダに、裸族がいた。

 カーテンの隙間から覗き見ると、どうやら外国人のようだ。筋肉質な逆三角形のからだに、これまた逆三角形の頭がのっている。部屋の黄色い灯りが逆光になって、男の姿は薄ぼんやりとしか見えない。それなのに私の視界はクローズアップされて、その表面にそよぐ金色の産毛までくっきりと見える。
 金髪の白人男性だった。
 男はベランダの手すりに肘をついて、夜の静けさを楽しみながらビールを飲んでいた。全裸で。

 私はカーテンを閉めて、ソファに腰を下ろした。
 小さなサイドテーブルを見つめながら、開けたばかりのビールを飲んだ。冷たいはずのビールがただ苦いだけの飲み残しになったような気がした。

 ※※※

 翌日は悶々として、仕事が手につかなかった。
 どうして自分は遠慮したのだろう? いわゆる白人コンプテックスか? 彫刻のような彼のからだに怖気づいて、心が挫けてしまったのか?
 しかし、そんな必要はなかったのだ。同じ裸族じゃないか。肌の色が違っても、同じ裸族なら、フリー・ユワ・マインド!(己の精神を解放しろ!)じゃないか。

 その日の夜も、彼は全裸でビールを飲んでいた。
 私は窓を開けた。
 白人男性が気づく。ホテルとホテルの渓谷の向こうから、わずかな微笑と涼しげな視線を投げかけてくる(実際のところは、表情までは見えないのだが)。
 私は缶ビールを夜空高くかかげた。
 彼はそれにこたえた。
 茶色い瓶に入ったビールを小さくかかげた。

 ——裸族に乾杯!

 私にはそれだけで充分だった。
 穏やかな夜になった。
 どこからか日焼け止めクリームの甘い匂いが漂ってきて、アルコールの酔いを増長させた。少しずつ冷めていく、昼間に熱された都市の温度が頬に心地よかった。
 窓を閉めるとき、私は右手をあげた。
 彼も右手をあげた。
 私は手を振った。
 彼も手を振ってこたえてくれた。

 ※※※

 翌日も、彼はベランダでビールを飲んでいた。私たちはそれが当然のようにエアーな乾杯を交わして、それぞれの裸の夜を楽しんだ。

 その翌日には、彼は(ちょっと待ってくれ)と手振りで言った。
 しばらくして部屋から出てきたのは、裸の女性だった。
 ショートカットの白人女性だった。
 彼はその隣に立つと、女性の肩に右手をそえた。

 ——見ず知らずの私に、妻だ、と紹介してくれているのだ!

 声は聞こえないし、仮に聞こえたとしても、私は英語がわからない。
 それでも、私には彼が伝えようとしていることが手に取るようにわかった。脳みそで直接話しているみたいに一秒のバッファもなく、先入観も偏見もなく、私たちは共鳴した。

 ——ああ、なんて美しいのだろう。古代ローマのマグカップに転写された新郎新婦の写真のようだ。

 すると私は、より多くのことを彼らと話したい気がした。

 ——あなたたちはいつから裸族なんだ?
 ——ヌーディストビーチって最高の文化だね。
 ——こちらの国は、裸族には暮らしづらいよ。そちらはどうだい?

 ふだんの私は無口だった。
 職場の人間たちの会話に参加することもなく、家族からは何を考えているのかわからないと言われる。無口であることがキャラクターとして成立してしまい、意見を求められることもない。
 しかし私にも意見があった。娘の教育方針や、会社の愚痴だって当然あった。
 それが服を着ていると出てこない。エラ呼吸できない魚のように溺れて、かすれた空気が鼻の穴から漏れていく。

 制服が話しかけてくる。白衣が「それでは診てみましょう」とイスをまわして、紺色のスーツが腹を抱えて笑っている。

 家に帰れば、ユニクロのレギンスパンツが片膝ついてピーナッツをつまんでいて、タイムセールのファストファッションがスマホに夢中。
 彼女たちが見ているのは、斬新で、個性的な布切れたち。

 それが今夜は——
 こんなにも話せるのに! こんなにも話したいことがあるのに!

 私は話せない言葉の数だけ手を振った。私は饒舌だった。どれだけ手を振っても、話し足りない夜だった。

 ※※※

 出張最後の夜になると、どうしても自分の気持ちを伝えたくなった。しかし会って話すのは、私は英語ができないし、彼らの都合だって考慮しなくてはならない。それで手紙に「トゥデイ イズ ラストナイト、サンキュー」とだけ記して、彼らが泊まっているホテルのレセプションに託そうとしたが、よく考えれば、部屋番号はわからず、名前さえ知らない。私と彼らには社会的接点は何もないのだった。

 自分のホテルに戻りながら、今夜が最後だとしみじみと考えた。次の出張は決まっていなかったし、仮に出張が決まったとしても、観光客だろう彼らと再会できるとは思えない。

 人生を振り返ってみると、私は裸族を名乗りながら、自分以外の裸族に会ったことがなかった。私を生んでくれた父と母は、裸族ではなかった。いつだって〈服〉を着ていた。そういう意味で、私は生まれつきの孤児だった。
 生き別れになった兄弟に、ようやく出会えた気がしたのだ。
 禁断の果実を口にしてからというもの、私たちは彷徨の旅を続け、世界のいたるところに散らばった。日中は〈服〉という仮面をつけて暮らしているので、町ですれ違ったとしても、お互いを認識することができない。

〈服〉というものが存在する前から、私たちは存在していたというのに!

 その夜は、いつもより長い時間、シャワーを浴びた。全身をくまなく洗いながら、最後の夜だなんて気負わず、笑顔でありたいと願った。
 鏡に映る自分の顔を見る。手のひらで頬を一発叩いてから、缶ビールを手にして、カーテンを開けた。

 ——なんてことだろう!

 目を疑った。
 いつも見えるのは外国人夫婦のベランダだけだった。他の部屋のカーテンは固く閉じられ、青く沈んだ夜に、外国人夫婦の部屋だけがぽっかりと浮かんで見えた。
 それが今夜、すべての部屋のカーテンが開き、すべての部屋のベランダから裸の人々が手を振っている!

 ホテル全体が黄色く輝いて見えた。
 外国人の夫婦がいた。その隣りには男の子と女の子がいた。

 ——ああ、子どもがいたのだ。裸族の子だ。みんなの子だ。

 他の部屋には、おじいさんがいた。おばあさんもいた。同年代の男性から年頃の娘さんもいた。赤ん坊もいた。コックさんもいた。白人さんも黒人さんもカンボジアの留学生もいた。
 みんな裸だった。

 ——ありがとう、同胞よ! ありがとう、裸族よ!

 私は心のなかで話しかけた。

 ——帰ったら妻に話してみるよ。裸で話し合おう。きっと離婚しようなんて言わなくなるさ。

 そんなことより話してもいいかな?
 この映画は悲しいぐらい退屈だ。
 観客は私一人で、スクリーンには今日一日の息継ぎしている泡沫が映っているだけなのだから。


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