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最後の手紙

無念だった。なんでこの年に、と思った。

誰を責めることもできないし、過ぎ去っていく時間を、社会の情勢を、見えない脅威を、呪うしかできなかった。

たぶんこの時の思いは折に触れて多い出すのだろうし、酒の席ではしばらくお決まりの話題になるんじゃないかな。


去年の卒業式、吹奏楽部の一奏者として多くの卒業生の門出を祝って演奏をした経験はとても色濃い思い出として残っている。演奏機会は様々あって、それぞれで感じる思いは違うし、それぞれの良さはある。でも、卒業式はなにか特別感があるのだ。

演奏後の拍手は、いつも聞くそれよりもボルテージが高いもののように感じる。(こちらも、指揮をしてくれる先輩が晴れ着姿だったりといつもとは違う高揚感があったからなのかもしれないが…)

たった一曲の演奏。時間としてはたった10分程度。でもその一曲に、卒業する先輩は4年間の様々な思いを託しているのだろうな、と思うとさらに胸が熱くなった。


それが、吹奏楽部員としての卒業式なのだ。


今年の卒業式は去年にも増して楽しみにしていた。美しく、力強く、切なく流れるあの曲を、演奏したかった。あの4年生の先輩方に導いてもらって演奏したかった。「最後の手紙」という文言にふさわしい、感謝と敬意を込めた演奏をしたいと心から思っていた。先輩の指揮を、目を凝らして見つめようと思っていた。演奏後、どんなに素敵な景色が見れるだろうと、ひそかに想像していた。忘れられない景色になるだろうと確信していた。


思いが強かったからこそ、「卒業式での演奏は中止」という知らせを受けたときには、やるせなさがものすごい勢いで襲ってきた。インターンの真っ最中だったけど、一気に現実に引き戻されて、涙しか出てこなかった。

「やりたかった。演奏したかった。」

この思い以外に、感情が出てこなかった。

衝動的に先輩にかけた電話口で、泣く事しかできなかった。


後日、先輩は「音楽活動の素敵なところは、このような困難も乗り越え、抱いた悶々とした思いまでも音にしようとすることで、今までにない大きな力を持った音楽を生み出すことができることだと思う。」

と言っていた。そうした悶々とした気持ち、それを感じる力を大切にしてほしいと言っていた。


状況を嘆く事なら、いくらでもできる。恐らく、今回の騒動で、楽しみにしていた色々なことが無くなったり、予定が狂ったり、悔しい思いをした人は、世界中にたくさんいると思う。

その波に飲まれて、ただ悲しむこともできる。

だけど、私には音楽というものが、吹奏楽というものがあるから、尊敬できる仲間がいる活動場所があるから、前を向いて活動していきたい。

悔しさも、やるせなさも、寂しさも、音に変えていくしかない。


たくさんのことを教えてくれた先輩方、ありがとうございました。