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意識のデトックス。

「デトックス」ってけっこうなパワーワードだな、と思う。

このトシになると、
カラダにいろんな毒素や老廃物が溜まっているような気がして仕方ない。
肌の調子が悪いのも、疲れやすいのも、血液がドロドロしているのも、足が冷えているのも、全ては毒素と老廃物のせいなのだ!という説は、なんと説得力があるのだろう。

とはいえ、わたしはそれほど健康オタクではないので、白湯を飲むとかカラダに悪そうなものをあまり食べない、ぐらいしかしていない。
で、その代わりと言ったらなんだけど、意識における毒について考える。
肉体に毒が溜まるように、意識にも毒が溜まるのだ。

意識における「毒」ってなんだろう?
固定観念なのか?行き過ぎた自己愛なのか?怒りや蔑みなどの良くない感情なのか?
と、いろいろ考えた結果、わたしは「深刻さ」こそが「毒」なのだという結論に至った。

生きていれば、固定観念も自己愛も良くない感情も、自然にそこにある。それぞれの多寡は個性や環境によるだろうし、多ければ生きづらい可能性はあるけれど、そうでないひともたくさんいるように見える。
例えば、還暦をとっくに過ぎた大御所政治家たちとかね。

ただ、それぞれの特性に「深刻さ」をプラスすると、様相がガラリと変わる。深刻さは、思考の暴走だ。
わたしは以前、毎朝書くモーニングページに、自分の生い立ちを事細かく書き出していったことがある。記憶に残っているのは、小学校に入る前からひとりぼっちで外をふらふらしていたことや、親に理不尽に叱責されたことなど、あまり良い思い出はなく、わたしは書いているうちにどんどん
「わたしって可哀想」モードに入っていき、気分も暗くなっていった。
暗い記憶を思いだせば思いだすほど、わたしのダメな部分が証明されていく。子どもの時のあの経験が、今のダメな自分を作ったんだ。

モーニングページには、いちばん古い記憶から順に一週間ぐらい書き続けたと思う。思い出を書いている時は、あっという間にページが埋まった。
その一週間は、ほんとうにどんよりしていたと思う。ずっと自分のダメさの証拠集めをしているようなものだった。親や兄弟に対する負の感情もメラメラしていた。

で、一週間ぐらい自分や環境を罵倒し続けた翌朝のこと、いつものようにページを開いて、日付を書いて、昨日書いた自分のモーニング・ページを読み返し、
「…という見方もできる。」
と書いた。どんどん不幸なドラマを求め続けて、深刻になっている自分に飽き飽きしたのだ。
わたしの子ども時代は、確かにあまり恵まれたものではなかったと思う。家庭は土台からグラグラしていたし、金銭的にも大変だった。
でも、今のわたしがそのことに捉われる理由はなにひとつないのだ。

同時に、書くことを通じて「思考の暴走」という現象をまざまざと見せつけられた気がする。思考は、その思考がいかに正しいかを、思考の主張にわたしが屈服するまで延々と訴え続けることができる、その声はとても大きく、ドラマティックで、悲観的だ。
わたしに書く習慣があったからこそ、そこから逃れられたけど、書く習慣がなければ、今でも捉われていたかもしれないと思う。

カラダのデトックスも大事だけど、
意識のデトックスも大事だよ~という話。

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意識のデトックスに、書く習慣はとっても有効です!
毎日書くのは大変だけど、みんなで一緒にやると案外できるもの。
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