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友人たちと交わした「また卒業式にね!」はまだ叶えられていないし、もう叶わない。

「卒業おめでとう」「卒業しました!」

そんな文字が日常に紛れ込む季節がすぎた。
3月。卒業の季節。
キラキラと輝く袴と、仲間と、卒業証書を持っている写真がSNSに流れるのを見ながら未だになんとなくすっきりしない気持ちを抱えている。

去年の3月。
世間が騒がしくなって色々な行事が”できる”か”できないか”の判断がではじめた。それは、社会的現象として仕方のないことだった。

私は去年、卒業を控えた大学生だった。
袴の予約も大学3年の夏前に済ませ、
「卒業できなかったらやばいね!笑」
なんて周りの友人たちと会話をしていたはずだった。
卒業式がなくなるだなんて予想もしていなかったから、式の後にあるパーティ的なものに参加するためのドレスを去年の1月に買った。
多分それなりに楽しみにしていたんだと思う。

でも、実際の2020年3月は学校の判断がくだるのを待つしかできなくて、
確か一週間とか二週間前に学校の公式発表で式がなくなってオンライン卒業式という名の学長先生のお話を学校のHPで流していた。
学校の公式発表が出た時、私はもう大学の寮から出て離れた実家に帰っていて、
それこそ卒業式に出るためだけに大学のある場所に帰る予定で、諦めるしかない、と思ったし、
その判断が間違っていただなんて今も思っていない。

だって、実際責任問題に発展する可能性もあるわけで軽はずみにできるものではないことはわかっている。

それでも、こうやって1年が経って改めて自分の後輩たちが楽しく写っている卒業式の写真をなんともいえない気持ちでいることを言葉にして消化してしまいたいから多分ここに今書き連ねている。

これは後悔とは多分違って、個人個人がどうにか努力したら変わる問題ではないから仕方がないことだ。
それをどう自分の中で納得できるかが今の問題なだけで。

そして思い描く卒業式が出来ずにあの場所から巣立ち一年たった今、私は卒業式を行いたいかと問われたらきっともうイエスとは言わない。
確かに行うよ!と言われたら行くかもしれないけれど、もう抱えているものがあの頃と違って、考え方もこの一年で変わってしまった。

例えば、今年の夏に世間が落ち着いて卒業式を行います!と連絡が来るとして。
私は同じ大学だった同期の意見を行くだろう。
それなりに楽しみにして、きっとウキウキとした態度で。
でも、それよりもまず、仕事の業務タスクを確認して厳しそうだなと判断した場合そちらを優先するだろう。

学生の時の一年は確かに短くて、でも思い出だらけで。
社会人になったこの一年は、目が回るような忙しさというわけではなかったけれど、それなりにタスクをこなして経験を積んで仕事をしている責任感というものがある。

一年前に卒業式が出来たのなら、馬鹿みたいに大はしゃぎをして、仕事したくないね、なんてみんなで愚痴って、でもなんだかんだ社会人に夢を馳せて、学生時代を懐かしんでいたのかなと思う。

でも一年がたってしまって、一緒にいたあの空間はもうなくて。
それでいてお別れが出来ずにここにたっている自分がいるのに
新しい環境に身をおいて、新しい関係を築きながら、今やらなきゃいけないことに目を向ける自分は、決して捨てられないし捨てたくない。

あのままの私たちで、
何も見えてなかった私たちで、
この先をどう見据えていくか悩む私たちで、
私は卒業式がしたかった。

どこかのタイミングで感情の落とし前はつける必要があるのだ。
1年経って、オンライン飲み会なんかをして近況報告をして。
それでいい、と。思うべきなんだろうなあ。

人生最後の卒業式のハズだった。
袴を着て、笑い合うはずだった、って。

この感情も、時と共に薄れて欲しいと思う。
今はまだ、落とし前がついてないけれど。

望みはしないものに縋り付くのはやめにするとしても、せめて、また会おうね、くらいは早いところ叶えさせてくほしいね

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