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雨はまだやまないが

虹が出るのは、雨の後だ。

そんな当たり前のことに、「くらしのきほん」の松浦弥太郎さんの言葉で気がついた。

虹が見たい。だから、多少の雨や風は我慢する。

「くらしのきほん」ーー松浦弥太郎

***

朝、私が会社に出掛けるときにはごく普通に元気だった父親が突然倒れたと連絡が入ったのは、忘れもしない、2015年2月25日の3時頃だった。

「息ができないって言ってたから心臓系かも。でも、右腕が動かないから脳かもって」

電話での要領の得ない母の説明は、結果的に正しかった。
大動脈解離スタンフォードA型。
直接の原因は心臓でも脳でもなく血管だったが、バリバリと音をたてて、本来あるべき場所から剥がれた父の大動脈は、救急車の中で心臓の動きを二度も止め、脳への酸素供給を怠り、心停止と脳梗塞の両方を引き起こすという最悪の事態に陥っていたのだ。

「病院の名前言うから、すぐに来て」

普段は娘や息子の仕事を最優先に考える母が、何の都合も聞かず病院に来いという。
まずいことが起きている。
頭の中でガンガン警鐘が鳴り、普段書けるはずの漢字が書けなくなり、地図を印刷しようと駆け寄った使い慣れたプリンターの使い方がわからなくなった。

電車に乗っているときに送られてきたメールで病名を知ったが、聞いたこともない病気だった。
仕方なくスマホで検索をかける。
Google先生が導きだした情報は、非情だった。

だめかもしれない。

頭をよぎった言葉を打ち消す間もなく、絶望感が更なるネガティブワードをぶちこんでくる。

私は父親を喪うかもしれない。

病院についた頃には、外は暗くなり始めていた。
これを書きながら、そういえば冬だったのだな、と思い出す。着の身着のまま救急車に乗り込んだ母は、どんな格好をしていただろうか。暖かい服を着ていただろうか。

私より遠い場所に勤める弟は、まだ到着していなかった。
私の姿を見つけるなり、母は涙を浮かべ、私の肩を抱き寄せ、涙声で一言絞り出した。

「かわいそうね」

一瞬意味がわからなかった。次の言葉を聞き、その言葉の真意を知ると共に、母は強い人だったのだ、と頭をはたかれたような気分になったのを覚えている。

「パパ、かわいそうね」

人生の伴侶を喪う危機を目の前にした母は、娘の目から見ても明らかにかわいそうだった。
しかし母は迷わず「パパがかわいそう」と言った。私の母はすごい人だなと思った。

父は、3、4割が命を落とすという手術で、文字通り「一命だけは」とりとめた。
手術室から出てきた父は、胸が閉じられておらず、臓器を動かす医療機器、つまるところ生命維持装置のようなもので命を長らえていた。

一週間生死の境をさまよい、微弱ではあるものの、すべての臓器が動き出したとき、やはり父もすごい人だったのだ、と感嘆した。

***

それから5ヶ月間、我が家の上空には、ずっと台風が滞在していたように思う。

目を覚ました父は、脳梗塞の影響で、家族の顔どころか、自分のいる場所も、自分自身もわからない状況だった。
肺機能の低下で酸素が十分に吸えず、喉の切開を行うことになり、しゃべることもできなかった。

毎日見舞いに行こうとした母を止めたのは私と弟だ。もともと体が強い方ではない。共倒れの危険もある。結局、二日に一回というところで落ち着いた。見舞いに行った日は、病状に一喜一憂し、行かない日は父を思って泣く。倒れようとも、毎日行かせたほうが良かったのかもな、と今となっては思う。

病院からは、少しでも病状が変化すると、夜中でも容赦なく電話が来た。
母は電話をとれなくなり、私は母と同じ部屋に寝床を移し、代わりに電話をとった。

仕事をしながら、いつ携帯が震えるかと、常に怯えていた。

***

台風というからには、「目」に差し掛かった時期もある。

回復は難しいと言われていた意識レベルが、家族の言葉に首を振って答えるほどに上がった。
動かないのではと言われていた半身は、自分でリハビリらしきことができるほど動くようになった。
言葉がわからないと思っていたのに、ペンを握って必死で文字を書こうとした。

そして何より、もう交わせないと思っていた言葉を交わすことができたのだ。

特別な器具を差し込み、つらそうではあったものの、自分の名前をはっきりと名乗った。
妻と娘、息子の名前を言い、みんな家族だと言い切った。

束の間の晴れ間だった。

***

しかし、意識を取り戻した父は、自らのことをわかりすぎるほどわかってしまったのだ。

絶飲、絶食の状態にも関わらず、アイスが食べたい、水がのみたいと訴える。
母が良くなったらね、となだめると、

「良くならない、死ぬんだから」

と、不満そうに言った。

「死期が近い」
「葬式の準備をしろ」

パパは死なない、治る、治るの!
縁起でもない言葉を打ち消すよう、そう声をかける家族に、自分の体のことは自分が一番よくわかる、と父は言った。

悟りを開いてしまったかのように、話そうとしなくなった。大好きだったテレビを見なくなり、ラジオだけをぼんやりと聞いている。

ただ、唯一、一人になるのを嫌がった。
「一人で逝きたくない」
その思いをひしひしと感じた。

台風は、再び強さを増してきた。

***

2015年7月28日。
父は逝った。

朝早くかかってきた電話で、危篤を告げられた。
通勤中の弟を呼び戻し、伯母二人に電話を掛けた。

病院につくと、父はこの世のすべてを目に焼き付けようとしているかのように目を大きく見開き、荒い呼吸をしていた。

家族三人が到着し、近くにすむ伯母が到着し、千葉に住む伯母が到着した。
今思うと、私たちはともかく、よく伯母は間に合ったものだと思う。

希望通り、皆に囲まれて父は亡くなった。

台風のような日々は終わりを告げ、豪雨のような悲しみだけが残された。

***

大切な人が死んでも、国は、法律は、私たちに悲しみに浸る暇を与えてくれない。
豪雨にめげそうになりながら、役所へ行き、銀行に行き、税理士のもとへ行き……。

「たとえ大変な事件に遭遇したとしても、日々のやるべきことを粛々とやり続けなさい」

父が常々そう言っていたという。生きているうちに聞いておきたかったと思う。

自分のやるべきこととは。
日々、そんなことを考えながら会社に行き、家事を手伝い、大量の書類をさばく。

強風はやんだ。けれど、雨は?

そんなある日のことだった。
天気の悪い日だったのだろう。

「あ、虹だ!」

銀行からの帰り道、母がそういって、空を見上げた。

周囲の人々が携帯で写真を撮っていて、つられて私も写真を撮った。

母も嬉しそうに、携帯を空に向けている。

その表情が見られたのが嬉しかった。

***

仕事のペースが、父の入院前と同じくらいに戻った。

誰とも会いたくない、という気持ちが消え、飲み会に参加できるようになった。

家族三人で、休日に観光スポットへと出掛けた。

そして今年の秋、長く付き合っていた恋人と結婚することが決まった。

雨はやまない。
今もしとしとと心を湿らせ続け、時折涙となって外に溢れ出すこともある。

しかし確実に、その勢いは弱まっている。

あの日、虹を見た。
あれは、雨はやむというメッセージだったのだろうか。空からの。父からの。

きっともうすぐ、我が家にも大きな虹がかかる。
そう信じることにしている。

サポートをご検討いただきありがとうございます! 主に息子のミルク代になります……笑。