保存食のタイムラグ

昨日、我が家の味噌が切れた。
あーあ。

そろそろなくなるかな、二日分の味噌汁にはちょっと足りないかな、なんて思いながら、近所のスーパーで予備の味噌を買っておいたので、問題ないと言えば問題ない。

それでも、あーあ、だ。
何せ今まで使っていたのは、父が趣味で仕込んでいた手作りの味噌だったから。

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父は手作業が好きな人で、なにかと「手作り」するのを好んだ。ちなみにもっとも壮大な「手作り」は、赤外線こたつ付きリビングテーブルと、それを作るための木材加工スペースとして庭に取り付けたウッドデッキである。昨今はやりのDIYでくくるには規模が大きすぎる。

もともとは祖母が行っていた、梅干し作り、らっきょう漬け、梅酒作りやジャム作り……を、父が仕込むようになったのは、定年前くらいからだろうか。
突然保存食に懲り始め、メールアドレスにまで「風土食」(もしかしたらフード・食だった可能性も)なんて使い始めたものだから、娘ビックリである。

父はやがて、祖母が作っていなかったものまで、年齢不相応に高いネット検索能力を駆使し、ほぼほぼオリジナルレシピで作り出し始めた。
柚子に味噌やくるみを詰めるゆべしや、魚を山椒の入った調味料で締める山椒漬け。そして味噌。

東京生まれ東京育ち、工学系理系大学卒の父に、どんなスイッチが入ったのだろう。

やがて我が家の食卓は、梅干しと言えば父の漬けたすっぱーい梅干し。らっきょうと言えば、父自慢の黒酢で漬けたやや色の濃いらっきょう。味噌汁に使われるのは、色の濃さのわりに味はまろやかな、父自家製味噌になった。

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父が入院したとき、ちょうどゆべしは数回に分けて乾燥させる時期に入っていたようで、ベランダに吊るされた大量のてるてるぼうずのようなゆべし(未満)を前に、家族は途方にくれた。
意識混濁、気管切開で、しゃべるのも大仕事の父に聞けることはない。

倒れたのが冬で、亡くなったのが夏だったから、作業の必要な保存食はゆべしと味噌だけだった。
季節が逆だったら、青梅とらっきょうを前に途方にくれていたのだと思う。

父の死後、しばらくたって、弟が母を率いて父が仕込んでいた味噌の蓋を開けた。
多少のカビは問題ない、というネットの言葉を信じ、表面のカビをこそげとり、味噌をかきまぜ、小分けにして容器に詰めて冷凍する。
作業は、弟が代休をとっていた平日に行われ、私が帰宅していたときにはもうすでに、すぐにでも食べられるものとして山のように積まれていた。
面倒くさがりだが、手先の器用さと作業の丁寧さは父親似の弟である。

入籍を控え引っ越しをするとき、母は私に様々な調味料を持たせたのだが、そのなかに父の味噌があった。
「なくなったら補充するから、言いなさいよ」
私は味噌と共に嫁に行った。
それから二度ほど補充してもらっただろうか。徒歩10分の実家に帰る回数は頻繁で、味噌をねだるのはいつもケースの中身がなくなるギリギリのタイミングだった。

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そして先日、とうとう味噌は残り味噌汁二日分かな(我が家は二日分の味噌汁を一気に作る)、というところまで減ってしまった。

実家に寄ったタイミングで「ね、お父さんの味噌欲しいんだけど」と言うと、母は「あー……」と、微妙な笑みを浮かべて尋ねた。

「もうなくなったの?」
「うん。あと一回分くらい。もらえる?」
「いいよ、わかった」

おかしい。
この反応、いつもと違う。
そう思ったら、母がぼそっと呟いた。

「あと一つしかないんだ」

えっ、と声が出た。
嘘でしょ。あんなにあったのに。

「だって、もう二年たったのよ」

らっきょうはないし、梅干しももうすぐなくなるし。ため息をつく母。

そっかー……そうだよねー……。
そうよ。
じゃあ、いい! いいよいいよ! 二人で食べて!
ほんとに? いいの?
うん、全然いい。私もらえない。
ありがとう、ごめんね。

結婚してから、「足りないものはない?」と聞き続けてくれている母。頼んだものをくれなかったのは、初めてだった。

***

父の味は、本人から二年遅れ、この世からなくなろうとしている。

あーあ。

なんて切ない食べ物なんだ、保存食というものは。
『海街diary』で、幸が久々に会った母親に、祖母の漬けた最後の梅酒を持たせるシーンを思い出した。
読んだ当時はなんとも思わなかったけれど、本当は三姉妹もあの酒を飲みたかったに違いないのだ。
もう一回父の死を味わったような、というと大袈裟だが、喪失感を覚える。

そういえば、幸は毎年梅酒を漬けている。
妹の佳乃には、お母さんにしっかりやっているところを見せつけたいだけだ、と言われていたけれど、きっとそれだけじゃないんじゃないかと思う。
失った人は帰ってこない。
だけど、その人の味は、努力で再現できる。
二度目の悲しみは、頑張れば克服できるのではなかろうか。

出汁の中に味噌をといたあと、ケースの縁についた味噌を指で掬い、ぺろっとなめた。
口のなかで転がして、口中に味を覚えさせるように溶かしていく。
味噌汁にするとまろやか、と思っていた味噌は、そのまま口にすると、しっかり塩気が効いていた。
人当たりはよいが、しつけに厳しい、古き良き時代を彷彿とさせる父らしい味だった。

味覚は保存できない。
だけど、なるべく覚えていたい。

同じく面倒くさがりの私が味噌を作れるかどうかわからないが、その機会があれば、この味を再現させたいと心底思うのだ。

(2017/06/28)

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