寂しがりながら生きる。

なぜ、こうも寂しいのか。

今週から原則自宅勤務が始まりました。
仕事も生活も、運動不足の危機を除けば何の問題もありません。

原稿を書いたり調べ物をしたり、確認してもらったり、ミーティングしたり。

3食(寝坊したら2食)自炊して、お風呂に入ってストレッチをして、夜少し友人と電話したり読書したりして、一日終了。

意外といけるなぁ、と思いながら自宅勤務を続けていたのですが。

先輩とミーティング中にもらった言葉。

「みさきち、寂しそうな顔してるねぇ。」

あら…
誤魔化せないものなんですね。

そう、何だかずっと寂しいのです。

人と会えないから寂しいのかと思ったのですが、そうとも限らなくて。思い返すと、誰といても寂しい、満たされないときもあるんですよね。

もともと寂しがりなほうだとは思いますが、
自宅勤務により、今まで人といることで紛らわせていた寂しさが誤魔化せなくなった。そんな感覚です。

おそらくこの「寂しさ」というもの、
解消できる性質のものではないんだろうなぁ、と予感がしています。

多分、生まれた瞬間、お母さんと肉体的に離れた瞬間から、人は寂しくなるのだと思います。
何とかいつも紛らわしているだけで、本来的には寂しさが備わっている。

誰かと繋がりを求めて、満たされないから、寂しくなります。肉体にも精神にも、寂しさは宿ります。

気軽に会うことが憚られる今の状況は特に、同じように寂しがっている人がたくさんいる気がしています。
もちろん、画面越しにでも気にかけてもらえると、嬉しさで一時的に寂しさが薄まることもあります。

でも、決してなくなるわけではない。
ずっと、付き合っていかなければならない相手のようです。

いやだなぁ、と思いますが、反対に考えてみると、少し違った見え方もしてきます。

寂しさが消えるときとは、どんなときか。

他者との繋がりが満たされ、繋りたがる必要がなくなるときです。そのとき自分は、「繋がっていたい」という願いも手放しているでしょう。

しかし個人的には、なんとなく、「繋がっていたい」はとても健気で健全で、なくしたくないものな気もするのです。

寂しいと感じているとき、おそらく心の底では「繋がっていたい」と願っています。

繋がっていたいと願うかぎり、繋がり先を求めたり想像したりする方法で、わたしはこの世界に生きて、繋がりを確保している。そんな気がします。
寂しいとき、"本当に"誰も頼る人がいないわけではないのです。

なんだか変な話ですが、
寂しいとき、つまり繋がっていたいとき、すでに何かと繋がっているのだということになります。

繋がっている上で、もっと繋がりたいと思う。

それが寂しさの正体。願いを諦めたり忘れたりして、世界との繋がりが見えなくなったとき、人は孤独を体験するのかもしれません。

「寂しい」と感じるうちはまだ繋がりを願っていて、繋がりを願うことで、少なくとも精神的な繋がりは保たれています。

ここまで一周すると、寂しがりな自分は「繋がっていたい」と強く、もしくは頻繁に願っていて、そのぶん充分に繋がっているのです。

そう思えると、
寂しがりながら生きる生き方が、これまでより愛しく、豊かで、健全なものに感じられます。

寂しいときは、このヘンテコな話を思い出して、眠りにつこうと思います。

もう繋がっているから、大丈夫。と自分に言い聞かせて。



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