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水木しげるさん、さくらももこさんと学校

はじめに

マンガ家の水木しげるさんや、さくらももこさんは学校の授業をまともに聴くタイプではなかった。だが彼らは授業中、本当に「何もしていなかった」のだろうか。以下、山根久美子『自分を再生させるためのユング心理学入門』(日本実業出版社)を参考に私見を述べたい。

ユング心理学の類型論で考える

ユング心理学の類型論で言えば、お二人は「内向-感覚タイプ」や「内向-直感タイプ」だった可能性がある。前者は自分の内面に刺激を受けやすい気質で、後者は内面のイメージを追究するタイプだとされている。いずれも外側から見て分かりにくいのが特徴だ。

いわゆる「発達障害」の文脈で捉える

さらにお二人の態度は今の学校ならADHDと言われ、発達障害と分類されてしまうだろう。だがそうだったとして、発達障害であるASD(自閉スペクトラム症)もADHDも、コインの裏表であろうと言われ始めている。ASDの特性である過集中(激しい没頭)のときにそれ以外のことへの注意ががら空きになり、ADHDと同じ「注意欠陥」となるからだ。彼らは授業中に「ボーっとしていた」のではなく、「内面のイメージの世界に没頭していた」のではないか。お二人が自らの内面を、絵を主として表現する職業に就かれたことにご留意いただきたい。学校教育は彼らの「仕事の邪魔」をした可能性すら考えられる。

子供の内面は大人よりも見えにくい

子供が自らの内面を、言葉でうまく伝えられないのは当然のことである。語彙の習得や脳の発達には、それなりの時間がかかるからだ。「ボーっとしている」ように見える生徒が、本当は何をしているかは往々にして外からは理解できない。だが心理学的に考えて心的エネルギーの量はほぼ一定だから、そうした場合は心的エネルギーが無意識に向かっていると見なした方がよい。性格のタイプによって内面が表に表れやすい人と、そうでない人がいるが、先述の内向-感覚タイプと内向-直感タイプはとりわけ分かりにくいのである。

学校教育の「矯正」する発想

学校に一番適応しやすいのは、外向-感覚タイプだという。社交的で、見たままを受け入れて行動できるからだ。学校はある一定の生き方を生徒・学生に教え込む機関であるが、日本の場合は特に、「合わない生徒を矯正する」という発想になりやすい。幸いなことに水木しげるさん、さくらももこさんは矯正されない強靭さ(しなやかさと言うべきか)をお持ちだったために大成されたし、われわれも作品を享受できた。学校が生徒の多様な気質に対応できる機関であれば、お二人と似たタイプの才能を伸ばせた子供がたくさん育ったに違いない。

性格が一様であるはずがない

人間の性格が多様であり、一様ではないことは科学的にも常識的にも明らかだろう。ところが学問を教える学校が、そうした自明のことを想定して作られていないのだ。これは生徒にとっても先生方にとっても社会にとっても、多大な損失ではないだろうか。子供が「お勉強」をしないとき、彼らは彼らにとって「必要な作業」をしている場合がある。子供の態度に困った先生方や親御さんが、水木しげるさんや、さくらももこさんの例を念頭に置くことは重要だろう。全ての子供に当てはまるとは限らないが、お二人は実際に自分の道を切り拓かれたのである。

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