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第6回全日本大学野球選手権からプロ野球を見る

1,全日本大学野球選手権と興津立雄の死去

現在神宮球場では71回目の全国大学野球選手権が行われている。今日のグラウンドコンディション次第では上武大学と亜細亜大学が決勝戦を行うところであろう。
これより大学野球は各々オープン戦を挟みながら一旦秋のリーグまで休憩となる。勿論選手は練習に明け暮れる事になるだろうが。

一方で6月9日。
広島カープを支えた強打者興津立雄氏ががんにより亡くなられた。86歳だと思えば往生と言っても差し支えないかもしれない。

その興津は大学時代、東都の長嶋と呼ばれている。
丁度東京六大学野球では砂押邦展率いる長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾などの大物メンツ揃う立教大学がその強さを知らしめていた頃だ。

そんな大学野球の熱い時代であった事を考えながら、この時代を見てみたい。

1957年の第六回大会は多くのスラッガーがチームに在籍した年と言える。
4年生になる長嶋茂雄がその大会で最も目立っていたバッターであろう。その横には関西大学の主砲難波昭二郎がおり「東の長嶋、西の難波」と言われた時代だ。
難波は長嶋に敗れたもう一人の巨人のサードとしてそこそこ書籍などの媒体で特集されるのは知っての通りだろう。

ぜこの大会以外でも早稲田の森徹(1958卒)。中央の桑田武(1959卒)。などプロでも名前を残すスラッガーが多い。歴史になってしまった今だからこそあまり語られないポイントではあるが、この時代の大学野球がどれだけレベルが高かったかを想像させるに難くない。

興津はその時の三年生。専修大学で三年生。
難波、長嶋達の中に一人、東都の長嶋として試合に向かっているのであった。

2,多くの英雄がいる第六回大会

意外かもしれないが長嶋茂雄や立教大学はこの全日本大学野球選手権で何かしらの通算記録みたいなものは残していない。
なんなら目立ち方で言えば難波昭二郎一人に負けるほどだ。

これは恐らく立教大学というチームと当時の野球の問題でもあろう。
当時の立教大学は杉浦忠(元南海)、拝藤宣雄(元広島)と言った投手、本屋敷錦吾(元南海)、片岡宏雄(元中日、国鉄・後ヤクルトスカウト)を主体とする守備のチームであり、それも6回大会での失点がほとんどない事からも想像できる。
北海道学園大学、難波のいた関西大学に3失点の後に決勝の専修大学では拝藤が無失点に抑えての勝利である。

そもそも意外ではあるのだが当時の六大学でも長嶋茂雄だけが傑出していたわけでもないのだ。慶應義塾の中田昌宏(元阪急)などと熾烈な首位打者争いをしている。
長嶋茂雄がスターとなっていくのは様々なめぐりあわせであることを考えさせられる。

逆に難波昭二郎は全日本大学野球選手権では無類の活躍をしている。
5回大会の1955年に1試合最多三塁打の2本を打っておりすでに難波の存在は知らしめていたと言っても過言ではない。5回大会では1本、そして今大会の6回大会では2本の本塁打を打っており、個人としての通算本塁打は3本。
ちなみに投手には後々長嶋茂雄と名勝負を繰り広げる阪神村山実、捕手には阪急で名監督として名を馳せる元広島の上田利治と豪華。5回大会はそれで他チームを圧倒し優勝に導いている。
このメンバーを以てしても第6回大会は立教大学に5-3で敗北してしまっている事を見ても6回大会のレベルが伺えよう。

その難波がプロ野球選手としては大成せず、長嶋茂雄の影に隠れながら野球をやめる一方、同期である村山実は長嶋と名勝負を何度も繰り広げ、引退後は上田利治が監督として名声を浴びる中、その胸中やいかに。
とはいえ、彼が社会の中で活躍するのは音楽会社パイオニアに入ってから。
長嶋茂雄の音源販売権取得だけでなく、さだまさし、小林幸子は彼のプロデュースから飛び出していく。

興津自身もなにかしら活躍したというわけではない。
一回戦の東北学院大戦で高橋孝夫がホームランを打っているくらいでなにかしら記憶を残しているわけでもない。
しかし結果としては5-0で立教大学に敗北。興津も目立った活躍なくして立教大学に敗北してしまう。

こう書くと興津のいる専修大は弱いように見えるが、専修大はこの大会立教大学に当たるまでの東北学院大、愛知大を無失点で切り抜けてくるなど存在感はすさまじい。東北学院大に関してしまえば7回コールドで圧勝している事からも専修大のレベルの高さが伺えよう。
また、大毎オリオンズ、大洋ホエールズなどで活躍し、私と同郷の投手坂井勝二が2年生でエース候補として挙がっている。

この時点で長嶋茂雄・杉浦忠を擁する立教、難波昭二郎、村山実を擁する関西、興津、坂井を擁する専修と後のプロ野球を支える選手が多くいた大会であったのは間違いない。
いかに派手であったか、また、多くの野球に力あった選手が揃っていたかがわかる。
現在でこそプロ野球界では「大卒は即戦力」と言われるが、この頃を改めてみると甚だ間違っていない。それだけの選手が神宮球場に集い、試合を繰り広げられていたのだ。

3,興津立雄のプロ入り後

興津がプロ入りするのが1959年。前年に決勝戦で相対した長嶋茂雄が大暴れしている頃だ。本塁打・打点王も長嶋と同期の森が取っている。大洋近藤も打撃十傑に絡んでおり、1958年卒の東京六大学野球のレベルを想像させる。

恐るべきは興津と同期であった大洋桑田武(中大)が本塁打王と新人王をかっさらっていったところだ。
この後黒い霧事件などに巻き込まれてそっと消えていく桑田だが、彼のすごさと当時の大卒を語る上では外す事は出来ない存在だろう。
彼もまた1958年の全日本大学野球選手権に出ており、片岡率いる立教大に負けている。また、同じ三塁として興津とベストナインを争い勝利。
興津をセカンドのベストナインに追いやっている。

では興津はどうであったかというと森永勝治、大和田明、藤井弘に阻まれ6番サードにいるが打率.220、本塁打5と桑田と比べるとどうしても地味な印象。守備率も.948と精彩を欠く。
彼がその輝きを出していくのは翌年で、21本塁打で本塁打同率二位(森)。118三振とシーズン最多三振をしながらも.268(11位)と大きく活躍。桑田の打率.301、16本塁打と比べると確実性は劣るが確実に対抗できるほどの選手になったと言っても差し支えない。

リーグ平均打率.232(25,437打数5,903安打)リーグ本塁打497本で安打が本塁率8.4%で本塁打率17.7%(21本塁打÷118安打)の成績は立派だ。
一日に打席に立つ可能性が0.26だから3打席は入ると考えてフォアボールなどを考慮すると2日に1安打は確実であって、そのうち4日に1安打はホームランと考えると、広島ファンにとって「ホームランが最も見れる可能性のある選手」であったのではないか。
長嶋、桑田に比べると確実性は劣るが64打点(一位は藤本勝巳の76打点)と考えると、興津立雄という打者はここぞでホームランを打ってくれる、ファンをシビれさせる打者だったと言っても差し支えないのではないか。

とはいうものの1960年はスモールボールに徹した秋山登や近藤などの明大五人衆を引き連れた三原修率いる大洋ホエールズが初の優勝。
選手層の薄い広島カープは勝ちが着けないまま4位でシーズン終了。お荷物球団の終わりはまだ遠い。

この後興津は1963年には初の打率三割(.303)を記録(リーグ5位)。本塁打もチーム同率2位の19本(大和田)。
森永、大和田、藤井、大学時代同期であった古葉、法政大のスラッガーであった山本一義、を据えた強力な打撃陣をメインの陣容に構えていくが、この頃には王長嶋が本格的に台頭してきた時代。森、桑田、マーシャル(中日)、江藤慎一(中日)と言った20本本塁打を打ち始める時代もあって若干の攻撃力の弱さも見えてくる。
投手力も相まって最下位街道を入る事になる。一位の巨人の平均防御率が2.571なのに対して、広島は3.827。とにかく点を取るがそれ以上に点が取られるチームであった。

そんな興津も1971年を以て引退。打数3,871に対して998安打(.258)。本塁打145。長打率は.419、OPS.739とまだ本塁打全盛期になる前の長距離砲の一人であった。

4,終わりに変えて~大学生が熱き時代を作った時代があった~

1957年の大会には多くの大打者が活躍しており、神宮球場を去った彼らが後にプロ野球に入って様々な記録を残しながら選手生命を全うしていった。

確かに今の時代のレベルと当時のレベルを比較してはいけないだろう。
しかし、そんな彼らが時代を引っ張った事を忘れてはならない。どうしても長嶋茂雄とその周辺、となりがちであるが、ここで戦いあった彼らがプロという舞台で多くの観客を沸かせたのは事実である。

結果今日の大会では亜細亜大学が勝利した。
この大会に関わった彼らのうち、プロや社会人と言った新たなステージで光を輝かせる選手が数多く出てくるだろう。
そのひのき舞台に上がる役者を育てたのはこの神宮であり、そこには様々な選手が色とりどりの活躍をしていた事を思い出してほしい。

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