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拝啓、トウモロコシ畑より ~フィールド・オブ・ドリームスから見るアメリカ野球の景色~

1、フィールド・オブ・ドリームスゲーム

現地時間8月12日、アイオワ州ダイアーズビルにて行われたシンシナティ・レッズとシカゴ・カブスの試合が行われた。
ご存じ1988年の映画『field of dreams』の映画舞台として使われ、幾度かの改修を得て2021年から始まった試合だ。前年はニューヨーク・ヤンキースとシカゴ・ホワイトソックスであったから来年以降行うとしてカードが予想できなくなるだろう。

というのも『field of dreams』という映画は原作W.P.キンセラの『シューレス・ジョー』がその土台であり、シューレス・ジョー・ジャクソンのいたシカゴ・ホワイトソックスと彼含む八人が起こした1919年(1918年と間違えていたので訂正しております。)WSでの八百長事件、ブラックソックス事件が作中最初の原動力となるため、1919年で争ったホワイトソックスとレッズは外せない存在だ。

中盤から後半にかけてはニューヨーク・ジャイアンツのアーチー”ムーンライト”グラハムとブルックリン・ドジャース入団を夢見たテレンス・マンがいたからこの二球団が試合というのは想像できるかもしれない。

いかにせよ、多くの野球好きが古きヒーローたちを思い出しながら、一面広がるトウモロコシ畑の中でオールドボールゲームを楽しむ事であろう。

2,field of dreamsはジョー・ジャクソンの物語ではない

忘れ去られがちなのはあの作品は題名に『シューレス・ジョー」と名付けながらブラックソックス事件の通称アンラッキーエイトの気持ちをおもんばかる作品ではなかった。

日本ではよく日本版「field of dreams」を作りたいという話になった時、まずどの球場に誰が出るか、という話になりがちである。その多くは甲子園で、その次は東京スタジアムか。そこに高校球児か往年の選手が出る、というところで話が終わる。

しかし、映画ではシューレス・ジョー・ジャクソンは重要な人物ではない。言い換えたら誰だっていい存在でもある。タイ・カッブでも、ウォルター・ジョンソンでも、ベーブ・ルースでもだ。これは著者本人が「マイ・フィールド・オブ・ドリームス」でも書いている。
望めば誰でも来る。それは死んでいなくても。引退していても、現役でも。それがあのアイオワのコーン畑だ、と。

つまりシューレス・ジョー・ジャクソンは本題、テーマを呼ぶための布石でしかない。つまりテーマへのエスコート役なのだ。
ではなぜ、シューレス・ジョー・ジャクソンは現れたか。それはあらすじの段階で記されている。
主人公、レイ・キンセラの父が素晴らしい選手だった、と言わしめたから、彼が登場するのである。言い換えたら、レイ・キンセラの父、というキーワードがなければシューレス・ジョー・ジャクソンは出てこない。

この時点でシューレス・ジョー・ジャクソンはその作品のメインではない事が示唆されるのだ。

実はそこを見落としている。
広義的な意味で「本人の望むヒーローがやってきてくれる場所」がフィールド・オブ・ドリームスなので、日本版云々の、誰もが考える想像というのは正解なのだが、これは本来の意味に当たらない。

もっと言えば、必ずしもその打席、守備位置に来る選手は憧れた選手ではない可能性があるわけである。
フィールド・オブ・ドリームスは「観客その人にとってのヒーロー」がやってくる場所であって、それをメジャーリーガーともプロ野球選手とも定義していないからだ。(勿論この言葉を真に受けたら興業は成り立たないので実際はメジャーリーガーを呼んで試合しているわけだが)

つまりシューレス・ジョー・ジャクソンはレイ・キンセラの父にとってのヒーローがやってきたのであり、レイにとってのヒーローはシューレス・ジョー・ジャクソンではない。もっと他の誰かなのである。

実際ここに作品の一部を書いていてもう答えは書いてしまっているようなものなのだが、レイにとってのヒーローは誰だったか、気になった方は視聴してほしい。

3,なぜアイオワの片田舎なのか

何故今頃、もう30年も前になるであろうfield of dreamsを模した映画を舞台にしたのであろうか。

それはアメリカの野球殿堂博物館がいまだにニュージャージー州ホーボーケンにある事が何よりの証明だろう。

野球殿堂博物館がなぜホーボーケンにあるのかを知っている人は少なくなかろう。
南北戦争の英雄、アブナー・ダブルディがこの地で初めて野球を行った、と言われた事から始まっている。
勿論現在ではこれは否定され、1840年代、アレクサンダー・カートライトが設営したニューヨーク・ニッカ―ボッカ―ズ達が作ったルール、通称カートライトルールをその基盤としており、現在ではブルックリンで行ったなど多くの論が出ている。

それでもなおマンハッタンの川向うにある落ち着いた地域で野球が開始された、という逸話を基にここを拠点としている。

野球殿堂入りを果たした佐川和夫氏はこの地に訪れた時「故郷に帰ったような気持ちになる」と多くの書籍で記している。勿論比喩表現だ。英語塾をやっていただけでアメリカに多くの関係があるわけではない。
だが、彼がその比喩に託したのは「もしアメリカにおいて野球の原型があるとするならば、このような田舎であってほしい」という願望である。

実際多くの書籍でベースボールが都会の、いわゆるタウンスポーツであることを口にしている。野球は決して田舎のスポーツではない。多くの人が集まる都会のスポーツだ。これは日本もアメリカも変わらない。

ただ、ボールゲームと名を残すようにその始まりは競技性よりは遊戯性を持っていたという説は強く、日曜日の御祈りの午後にプレーするようなものだったのではないか、というのは多くの人が指摘するところだ。
勿論これを野球の原型という気はない。競技的方向性を持たせたカートライトルール以降を野球の原型というべきであり、野球というものが生まれる源流という方が正しい。
少なくとも「野球は遊びだから原点回帰しろ」などと言う気はない。点数を取って勝敗をきっちりわけようとカートライトが進めた時点でその考えは時代を読み取れていないものなのだ。

だが、その源流にある清流を大切にしたいという気持ちはわかる。
日本にホーレス・ウィルソンが野球を持ってきた際「勝敗より内容にこだわれ」という言葉を言ったように、勝ち負けは結果であり、その過程を重んじ、讃えあうという、まさに「遊び」の源流を伝えようとしているのではなかろうか。

それは勝敗をきっちり分けていくタウンにはない。
いつもどこかで誰かが勝ち、その一方で負けていく世界に「遊び」本来が持つ過程におけるゆるやかな「遊び」を置くスペースがない。

だからこそ佐川氏は野球のふるさとに田舎を求め、多くの野球ファンがブルックリンなどではなくホーボーケンを選ぶのだ。
結果の中にあった多くの過程、そこに生じた人と人のドラマをいまだに信じたいからあえての田舎なのだ。

それは映画field of dreamsがなぜアイオワの田舎で始まったのか、にも繋がっていく。

映画評論家、町山智浩が「field of dreams」を評する時になぜアイオワを選んだかを評している。
アイオワはアメリカ的にも中心地に属し、政治思想もどちらに強くつくわけでもない。色々な意味でアメリカの真ん中であるから、という事だ。
これはかなり的を得ていると筆者は感じている。
タウンの中に人生の真実はないと感じた若者がアイオワというド田舎に真実を求めていったように、アメリカの田舎にはアメリカンが忘れたなにかがあるのではないか、と考えるからアイオワという地を選んだのだ。

これを映画ではサリンジャーの代わりとして出た作家、テレンス・マンがこう語る。

America has rolled by like an army of steamrollers. It's been erased like a blackboard, rebuilt, and erased again. But baseball has marked the time. This field, this game, is a part of our past, Ray. It reminds us of all that once was good, and it could be again.

映画「field of dreams」

「アメリカは軍隊のスチームローラーのようだ。黒板のように消され、また建てられ、また消される。だが、野球だけは時を刻み続けた。このフィールド、ゲーム、それらは刻み続けたそれらの一部だ。レイ。それはかつて我々が失った善きことをもう一度思い出させ、そしてここに現れる」

野球をもってアメリカ人が忘れた善き心をもう一度取り戻すことが出来るのが、アイオワの中心に作られたこの球場だ、というのである。
ここが野球映画としてのfield of dreamsのコアであり、さらにそこからもう一歩進んだところに「アメリカの善き心」を象徴する誰かが出る事で大団円を迎える。

だからこの映画は最後に一文を足して終わるのである。

ある意味field of dreamsとアメリカ野球殿堂がホーボーケンにある理由は似たような性質を持つのである。

4,古きを思い出して、自分の道を見つけていく

私はこの映画を「野球の盆祭り」と考えている。
奇しくもアメリカで盆のシーズンにフィールド・オブ・ドリームスゲームをやるのだから、世の事実は面白いというか。

アイオワの田舎で野球を見て、過去のヒーローたちに思いを馳せる。
それは都会的なヒーローではなく、無邪気な時に観たあの選手や、あの人から教えてもらったあの選手であったりする。
そこにふと戻った時にアメリカの奥底に眠る良心を思い出す。

日本人が盆をやる光景にかなり似ている。
アメリカにも過去を振り返る時間が必要で、野球を通してそれをやるか、祖先を通して行うかの違いである事に気付かされるのだ。

そこで過去を思い出し、地続きの歴史と自分の現在、未来を繋げていく行為があの映画に込められているのだ。

最後にかえて、field of dreamsはヒーローを通して自分の思った夢を叶える場所である。
それはジョー・ジャクソンが退場の時に答えを言っている。

「(レイを導いた声)あの声は、君自身だ」

ジョー・ジャクソンがエスコート役である事をばらし、それが終わったためにコーン畑に消えていく。
レイにとってジョー・ジャクソンはヒーローではなかったのだ。

そして本当にいたヒーローと出会うのがこの作品の終わりだ。

もし日本版フィールド・オブ・ドリームスを思い立った場合、そこをちゃんとしておかねばならない。
長嶋茂雄かもしれない。榎本喜八かもしれない。

だが、何故長嶋茂雄だったのか。榎本喜八だったのかを考えた時、彼らはエスコート役であることに気付くはずだ。
そしてそこから見えた人が、思い立った人の、本物のヒーローであり、彼と何をしたかったかを考える

そして、その第一歩を踏み出す行動が、本当のfield of dreamsである。

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