ブルックリンの人々はエベッツフィールドの夢を今もみるか?

  MLBのオールドファンにとって必ず語られる球場でもひときわ古い球場といえば間違いなくニューヨーク州にあった三つの球場、もともと野球場ではなくポロ専用に建てられた場所を球場として使ったセンター140m以上の愛すべきクソ球場ポログラウンド。バンビーノ、ベーブ・ルースのホームランによってそのポログラウンドから追い出されたニューヨークヤンキースがブロンクスへの誘致によって建てられたベーブ・ルースの建てた家ことヤンキースタジアム。

 その中で、現存どころか半世紀たった今でもさも昨日のように語られる球場が一つある。それはブルックリン地区においてドジャースとともに市民に愛された球場、エベッツフィールドである。

 今日は元旦企画としてそれに触れてみたい。

1、古都ブルックリン

 とはいうものの、今更エベッツフィールドをさらったところで古いブルックリン市民のウォルター・オマリー(ドジャースをロサンゼルス移籍したオーナーにてブルックリン・ドジャースファンにとってはダース・ベイダー以上の悪の親玉)への悪態を書くくらいしかない。

 だとしたらドジャーズとエベッツフィールドを取り巻く環境というものを話してみても面白いだろう。だとしたらまずエベッツフィールドを取り巻くブルックリンという土地の話をせねばならない。

 ブルックリンという土地の開拓は1646年にはすでにその名前が見受けられる。ロングアイランドにおいてオランダ西インド会社を中心にオランダの地名、ブルーケレンの名を使ってニューネーデルランドの一部として開拓されている。時系列を見てもブルックリンの誕生は早い。

 そののち英蘭戦争などで植民地としての管轄は変わり、ニューネーデルランドという名前がニューヨークと変わったりもするものの1683年にキングス郡として地方行政を開始するなど、アメリカ史においても都市としての発展が多い。

 特に19世紀にはいると湾岸都市としてブルックリン海軍工廠を持ち、一時は合衆国で三番目の人口を抱えるまでに成長。もともと奴隷売買も盛んかつ南北戦争にて北派だったこともあって、様々な人種がこの地に降りたことは想像に難くない。これは現在でもいえることでニューヨーク州における黒人のおおよそ40%がブルックリン在住というデータも出ている。

 そのような多種多様な人口の中で産業が発展し、それに伴い娯楽も発展していく。そのような中で19世紀中盤での野球チーム乱造の時代に野球チームが出ることは考えにくいことではない。その昔筑豊から北九州にかけて野球が盛んだった時代があり、その影響が原貢などの元選手が高校野球で大暴れするような時代を得ることがあるが、それは今昔変わらないものらしい。

 まさにアメリカの「人種のサラダボウル」という言葉を体現した町。それがブルックリンだった。


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2、ブルックリンと野球

 そのような人口の中で野球がどうあったのか、ということになるが、もはや前述したように盛んであったことが記録として残っている。

 1845年には野球試合開催の記録。1850年におけるアマチュアチームの登場。特にブルックリン・アトランティックスなどは世界初のプロ野球チームたるシンシナティ・レッドストッキングスに8-7で勝利を収め、同チームの92連勝を止めるなどブルックリンにおける野球熱のすさまじさがうかがえる記録は多い。野球熱が高い地区であることは間違いなかろう。

 そして1883年、ブルックリンにプロチームのブルックリン・ドジャースが誕生。オーナー、ハリー・ファンデルホーストからチャーリー・エベッツがドジャースを買収するところからエベッツフィールド誕生のきっかけが生まれる。

 もともと本拠地は同市のワシントンパークであったのだが、木造で小さいことが不満材料であった。そこで鉄筋コンクリートで固めた新球場を建てようという計画を持っている。

 そしてエベッツフィールドの完成は紆余曲折を得て1912年に誕生するのだが、オーナーが球場を持つというのが現在では珍しく思える。しかし当時としてはさほど珍しいことでもなく、監督とオーナーを兼任しているジョン・マグローがポロ・グラウンドの権利を持っていたり、シカゴ・ホワイトソックス所有者チャールズ・コミスキーのコミスキーパークなどよく見る光景でもあった。

 またつけ加えておきたいのが1910年代は多くの球場が木造球場から鉄筋コンクリートに変えていることだ。1909年にペンシルバニア州フィラデルフィアでシャイブパーク、1912年にミシガン州デトロイトにてタイガースタジアム、マサチューセッツ州ボストンにてフェンウェイパーク、ポロ・グラウンドもブラザーフットパークから鉄筋化をしている。現在も使用している球場のうち、フェンウェイ・パーク、ウィグリーフィールド(1914年)がこの時代のものであることを考えると、ちょうど1910年代は球場にとっても新しい時代であり、今まで原っぱに観客席をつけたもの、というものから球場、という形に本格的な進化を遂げるタイミングであったことが推察される。

 日本においてもこの1910年代の球場が模され、1924年に甲子園が、1926年に神宮球場が生まれているのだから、エベッツフィールドはそういった大きな時代の流れでの一球場であったことは確認しておきたい。

 多くの人口と娯楽熱が混ざった結果生まれた球場。それがエベッツフィールドなのである。

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3、全盛期、そして別れ

 エベッツフィールドをホームにした後、ドジャースは強かったのか、と言われれば難しいところである。確かにこの後の1914年、アンクル・ロビーことウィルバート・ロビンソンが監督をしたとき1916年、1920年と優勝を決めている(この時の名前はブルックリン・ロビンス)が、エベッツやエド・マッキーバーなどの経営陣が相次いで死去した後、ロビンソンが経営にもかかわることになったこともあり低迷し、1940年代を待たねばならなくなる。まさに"Wait 'til next year"来年こそは、の時代に片足をつっこんでおり、1941年にレオ・ドローチャーのもとで優勝こそするものの、やはり勝てないチームという印象のまま第二次世界大戦を超えることになる。

 そして戦後、あえて触れるまでもなかろう1947年。オーナーブランチ・リッキーとジョージ・シスラーの推薦によって20世紀初の黒人MLB選手、ジャッキー・ロビンソンが現れる。

 これに関してはブランチ・リッキーやジョージ・シスラーのみならず監督(正しくは監督ではなかったが)レオ・ドローチャーの発言やチームリーダーのピー・ウィー・リーズなどの関係が語られるが私はこのブルックリンという土地も大きく関係していると考える。第一章でも書いたようにブルックリンというのは奴隷売買が盛んでありながら強烈な北派であったりと東海岸の中では人種のるつぼとしての都市形成が強かった。そのため黒人もブルックリンには多く、他の土地よりも受け入れやすい土壌があった。また、リッキー自身も観客層増大の要因として人種差別の撤廃を考えていたであろう。要はブルックリンという土地で経済を回すためには当時の白色人種では当たり前となっていたモラリズムとしての人種差別が邪魔と判断したからこそであろう。経済活動が慣習に勝つ見込みがあったからこそのロビンソンであろう。

 実際はどうだったかといえば、リッキーの目論見は当たり、ジャッキー・ロビンソンは最初こそ迫害されていたものの、1947年も終わるころにはヒーローになっていた。ロビンソンを模した歌がカウントベイシー楽団によって歌われた。(カウントベイシー自身はその前にサッチ&ジョシュ・アゲインなんて書いていたりもするが)人種差別の雪解けと、そこから始まる50~60年代の燃え広がるようなアメリカ人種史の始まりでもあるのだが、ここではそれは省く。

 そしてその頃からドジャース含むMLB各球団は黒人選手をどんどん取るのだが、やはりドジャースの補強はインパクトがあり、ドン・ニューカム、ロイ・キャンパルネラといった投打の要、そしてデューク・スナイダー、ギル・ホッジス、ドン・ジマーなどの台頭もあり、華やかな打のチームとして毎年のようにケーシー・スティンゲル率いるヤンキースと戦うチームへと変化していく。その度にヤンキースに負けて帰ってきており、ついに"Wait 'til next year"の、いわゆる来年のWS制覇を楽しみにできるチームへと変化していく。

 これと同時にブルックリンも変化をしており、もともといた黒人階層のみならずプエルトリコ、ドミニカからの移住者が増えたため治安が悪化、それに伴い白人階層が出ていくという構図になり、黒人選手の本格台頭もあって、段々とニューヨークの中ではブルーカラーが応援するチームへと変化していく。幸か不幸か、リッキーの目論見は半分当たり、半分外れる形となってしまった。とはいえ人気は今まで以上のものだったようで、これが1950年にオーナーとなったウォルター・オマリーの計画と、ブルックリンファンからのダース・ベイダー化に繋がっていくことになる。

 そしてその人気とともにチームが絶頂になるのが1955年。"This is next year!"ヤンキースに挑戦すること六回。遂に悲願のWS制覇を成し遂げる。翌年はドン・ラーセンの完全試合などでいつものドジャースになってしまうのだが、そこには1920~40年代かつての弱いドジャースではなく、強いドジャースの姿があった。

 しかし1957年。ブルックリンに突然の悲劇が訪れる。ドジャースの西海岸移籍である。この移動にはオマリー、ブルックリン市などの様々な思惑の絡みがあるが、どちらにせよ人気が絶頂のタイミングでドジャースはブルックリンの地を去ってしまう。そして1958年。この十年間の熱気はなんだったのか、というほどにあっけなくドジャースは西海岸はロサンゼルスに行ってしまったのだ。

 この後の話をしてしまえばドジャースのロサンゼルス移転は大成功。永遠のドジャースのホームであり、列車で球場に足を運ぶ時代から車で足を運ぶ時代の象徴でもあるドジャースタジアムの完成。翌年にドジャースを追ったジャイアンツもサンフランシスコでプレーすることになり、1960年代のエキスパンションも含めて西海岸にもメジャー球団の時代が訪れることになる。

 そして残されたエベッツフィールドはさっさと取り壊され、その跡地にアパートが建つことになった。そこに球場があったことなどそ知らぬふりで。

4、ブルックリンの人々はエベッツフィールドの夢を見れるか

 結局ブルックリンの民は宙ぶらりんのまま数年を迎えることになるが、1962年、エキスパンションとともにニューヨークに新たな球団が生まれる。1964年にはシェイ・スタジアムという球場もでき、ブルーカラーがファン層に多かったドジャースファンは次第にそちらに移っていく。一方でブルックリン・ドジャース以外は応援しない、というファンも少なくはなく、徹底的なアンチウォルター・オマリーとして生を全うしたものも少なくなかろう。

 残念なことに今でもブルックリンにメジャーのチームができる気配はない。むしろシェイ・スタジアムの後任球場になったシチ・フィールドはエベッツフィールドを模しているなど、段々とそのあり方はニューヨーク・メッツに受け継がれつつある。昨今では変化もあるが、基本的にニューヨークの野球ファン層はホワイトカラーがヤンキース、ブルーカラーがメッツとその形はドジャースとヤンキース、ジャイアンツの関係と変わっていない。相変わらず「王道」気取りと「判官びいき」気取りの喧嘩は終わる果てがない。

 もうニューヨークにドジャースタジアムとエベッツフィールドは必要ないのだろうか。

 その中で一人だけ思い出してほしい選手がいる。

 それは世界的に有名でありながら、いまだにアメリカの野球で語り継がれている背番号42の男である。

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 彼は1956年、ジャイアンツとのトレードを画策され「ドジャースの選手でいられないならば」とそのまま引退してしまった。ジャイアンツのユニフォームに袖を通さなければ、LAのキャップを被ることもなかった。BのキャップとDoggersのユニフォームを自らの死に装束としたのだ。ジャイアンツにはすでに黒人でスタープレイヤーのウィリー・メイズがいたため、他球団に行ったからいきなり差別されることもなかったろうし、スター選手として扱ってくれるだろう。しかし彼はそれを拒否した。

 彼は「ブルックリン・ドジャースのジャッキー・ロビンソン」として選手生命を終えた。

 その後彼はコーチ、監督としてユニフォームに袖を通すことはなかった。激動の60年代の一人としてアメリカの慣習に立ち向かい「私は何もなしえなかった」という自伝とともにスタンフォードの自宅でこの世から旅立った。あまりにも寂しい最期だ。

 しかし、今はメジャーリーガーは一年に一度だけ、彼を思い出す日がくる。ことさらロサンゼルス・ドジャースの黒人選手は喜ぶ。あの彼のユニフォームを着れたことを喜ぶのだ。

 しかし、彼の心はどこにあったのか、と言われたら、それはドジャースのユニフォームでもなければ42の背番号ではない。

 ニガーというヤジと、ヒーローという称賛の渦巻く中、ピー・ウィー・リーズなどの背中押しがあって立っていたエベッツフィールドではないか。彼はブルックリンとエベッツフィールドを愛していたかどうかはわからない。しかし、ジャイアンツへのトレードを断った背景にはあの黒人、ヒスパニックが往来するブルックリンの姿があったのではないか。

 私は思うのだ。

 彼は「スタープレイヤー」でなく「ブルックリンの英雄」を選んだのではないか、と。彼は「野球選手」ではなくブルックリンに多く住む、いわば「エベッツフィールドを愛した人々」を選んだのではないか。

 真相はわからない。だが、彼は引退した。ドジャースユニフォームとともに。ドジャーブルーではなく、あのブルックリンの空のような、東海岸特有の重苦しい青とともに。

 そして今、カムデンヤードをはじめとする新古典主義の中、エベッツフィールド移転先の話があったクイーン区のシチ・フィールドがまんまエベッツフィールドを模していることを書いた。それはどこかであの人種のサラダボウルと呼ばれたブルックリンと、そこにあった球団へのせめてもの慰めのようなものなのではないか。意志、とは言わずにしても、われらがブルックリンの民を受け入れるという気持ちの一端があるのではなかろうか。

 エベッツフィールドは生き続けているのだ。

 背番号に、球場に。ニューヨークの大いなる歴史の一部として。ニューヨークの、人種のサラダボウルの姿を象徴するものとして。エベッツフィールドは生き続けているのだ。

 そして、アメリカがその記憶の追随をやめない限り、我々は永遠にエベッツフィールドの夢を見続けるのだ。

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