見出し画像

warでは野球選手全てを書き示さない ~ピー・ウィー・リーズの教え~

こんなことを言われた。
先日野球殿堂入りが発表された。そのうち競技者殿堂入りが黒田博樹と谷重元信、特別表彰が審判を長く務めた谷村友一の三名であったことは記憶に新しい。
それに伴って東京者への投票順位というものも発表されたのだがある方が言った言葉に反論してしまった。

曰くその人はこの投票には順位に問題がある、というのだ。
というのも彼は川相昌弘や宮本真也を取り上げ
「彼らが高位にあるのはおかしい。彼よりタフィー・ローズといった素晴らしい打者の順位を上げるべきだ」
と言い切ったのだ。

なるほどなんとなく言いたいことは分かる。
現代史観的には川相や宮本といった打者は犠打のイメージが強いから旧世代の象徴として彼らが高いのはおかしい。それよりも指標上高位にあるはずのローズのような打者が下にいるのがおかしい、と言いたかったのだろう。

なので私も
「ならばピー・ウィー・リーズがHoF(アメリカ野球殿堂入り)に入ってるのはおかしいって言いたいんだね?」
と言ってしまった。若気の至りである。
すると彼はこう言いだした。

「warが68.4もある彼がHoFに入っていて当然だ、と」

1,warとはどういったものか

warというものは近年野球を語る上でよく語られている。
言ってしまえばチームの勝利数にどれだけその選手が貢献したのか、多くの統計学を組み合わせて選出するものである。
現在のプロ野球、特にMLBでの選手価値を出すオフシーズンには欠かせない材料として扱われている。
わたしも正直そのくらいまでしか知っていないのでwikipediaでも参考にしていただきたい。

WAR (野球)

野手の場合はまず守備位置における得点を足したうえでパークファクターと呼ばれる球場の有利傾向気質、守備の得失点貢献度、走塁貢献度、打撃貢献度と足していき、最終的に勝率の統計学を加えて選手の活躍度を確認するというものだ。
大まかに言えば色々足してそれを勝率で割ると出てくる選手の傾向みたいなものだ。

これをゲーム、パワプロが好きな人ならなんとなく想像しやすいかもしれない。
パワプロは選手の能力をミート、パワーという打撃思考、走力という走塁、守備思考、肩、守備、エラー率という守備思考を最大SからGまでランク付けをする。
これに出てくる総合判定S~Gに球場の要素(例えば広すぎる札幌ドームや、ホームランの出やすい東京ドームなど)と守備位置の要素を加えたものだというものだ。
なんてことはない。パワプロでなんとなくやっていたサクセス選手評価みたいなものを数字でまとめただけだ。

しかしwikipediaという不特定多数が編集しあうここでさえwarへの注意としてこのようにある

算の性質と潜在的な測定誤差を考えると、WARは正確な見積もりとしてではなく、プレイヤーをグループをに分けるための目安として使用されるべきである。 たとえば、シーズン中に6.4 WARのプレイヤーと6.1 WARのプレイヤーは区別することはできない。 この値では彼らを区別するのには差が小さすぎるのである。 むしろこの2人のプレイヤーの価値がほぼ等しい可能性が高いことを示しているのであり、彼らを区別するならばさらに深く掘り下げる必要がある。ただし、6.4 WARのプレイヤーと4.1 WARのプレイヤーでは十分に違いがあるため、最初のプレイヤーのほうが特定のシーズンに彼らのチームにとってより価値があると確信できるとされる[11]。

同上

あくまで選手としての目安としてしか扱えず、その差をきちんとあまりにも大きな差があればそのチームにとってその選手は価値を失う、というものだ。
高ければ確かにその年を代表する選手の一人として扱われるが、低いことはその限りではないということだ。数値が低ければそれを補える選手のいるチームなどにいけば違う結論が出る可能性も十分考慮されているといってもいい。

事実これに関してはビル・ジェームスも批判しているところも入れていておきたい。

2,ビル・ジェームスが統計学を批判する日

このwarを出すうえでビル・ジェームスの提唱したセイバーメトリクスが多く使われている。
その彼が集大成といわんばかりのwarを批判しているのだ。

それは2017年のMVP争いに関してだ。ホセ・アルトゥーベとアーロン・ジャッジが候補に選ばれた際、彼らをwarで評価した場合、アルトゥーベ8.3に対しジャッジ8.1と、アルトゥーベがわずかに勝利していた。
それを「ナンセンス」と断罪したのだ。

James thinks this is crazy. “[WAR] is dead wrong because the creators of that statistic have severed the connection between performance statistics and wins, thus undermining their analysis,” he writes. He goes on to point out that Judge performed worse than Altuve in critical situations, such as the late innings of close games, and that WAR does not properly take this into account.

https://qz.com/1139288/bill-james-hates-war-and-thinks-aaron-judge-was-nowhere-near-as-good-as-jose-altuve-in-2017

彼はこの指標を「パフォーマンスと勝利は因果関係として完全に成り立っているようにしているので間違いが発生している」というのだ。
この記事を書いたライターもまた批判的な態度を持って示している。

しかし私はビル・ジェームスの見方が決して間違っているものではない、と思うのだ。

確かに選手のパフォーマンスというものは重要だ。
ただ新人のジャッジが二位のクリス・デービスに9本と大差付けた事は記憶に深い。それだけでも時代の変化を感じられるかもしれない。
しかし、ヤンキースとの歴史を考えるとまた違った側面も見えてくる。

ヤンキースというチームはベーブ・ルースやルー・ゲーリッグ、ミッキー・マントルのいたチームという事もあって長距離路線の選手が多い印象を持つが、決してそんなことはない。どちらかというと安打を積み重ねる選手のほうが多いのだ。
それは永久欠番に入る選手を想像してもわかりやすい。
デレク・ジーターだけでなくポール・オニール、バーニー・ウィリアムズといった面々は長距離砲というよりはヒットの延長にホームランがある中距離打者、いわゆる打撃巧者が多い。ビリー・マーチン、フィル・リゾートといった守備の人間も多い。
打撃はどちらかといヨギ・ベラ、ホルヘ・ポサダといった捕手に多く、長距離砲ととして印象深いのは前述の面々にロジャー・マリスを加え、レジー・ジャクソンくらいのものだ。長距離砲の一人としてカウントされてもいいドン・マッティングリーですら彼らの前では少し霞むほどだ。
そのレジー・ジャクソンは承知の通りアスレチックスから渡って歩いてきたいわば外様。ヤンキース単独の長距離砲はマントル以降はマッティングリーだけと言っても差し支えないほど足りていない。

事実本塁打王も多いわけではない。新型ウィルスの兼ね合いで縮小シーズンとなった2020年のルーク・ボイドは例外的にしても、2010年のマーク・テシェイラが最後だ。その前はステロイド疑惑でどうしても賛否両論分かれるアレックス・ロドリゲス。その彼を除外するとなんと1980年のレジー・ジャクソンまで戻らないといけない。
ヤンキースからキャリアスタートを始めた、とまで限定したらなんと1960年のミッキー・マントルになる。翌年が外様のロジャー・マリスと考えたらその因縁の深さもわかるだろう。
まるで殺人打線と言われた1920年代から黄金時代と言われた1950年代でヤンキースのホームランは打ち尽くしたといわんばかりに本塁打を象徴する打者がいないチームであるのだ。
それこそ通算222本しか打っていないドン・マッティングリーを歴代チームのホームラン打者と加えなければならないほど。

そう考えるとヤンキースという球団の歴史においてアーロン・ジャッジが出てきたことにどれほどの意味があろうか。
そうでなくとも大きな資本を使ってメジャーを持たない州などに大きく売り込み、それゆえに自らのことを「アメリカの象徴」と言わんばかりな態度を続けるヤンキースである。
野球をよく知れば知るほどアーロン・ジャッジの登場がアメリカン・ベースボール新たな象徴と映ったのではなかろうか。
それこそ王貞治を失った読売ジャイアンツにとって表れた松井秀喜という怪獣がジャイアンツの本拠地でホームランをバンバン打つ姿に酔いしれたように、そして松井をジャイアンツの象徴のように扱っていったように、だ。

歴史を知れば知るほど、彼の言葉も間違いではない。
そして2022年、遂に彼はゲーリッグ、マントル、ルース、そしてその1本を打ってしまったために不幸なキャリアを過ごすことになったマリスを超え62本でア・リーグのシーズン本塁打記録を塗り替えた。
文字通り、ア・リーグの歴史を、ロジャー・マリスが受けた不幸の歴史を超えていった。ジェームスの言葉は当たった。

2017年のMVPは結果としてホセ・アルトゥーベが獲得したのだが、これが仮にもしアーロン・ジャッジだったとしても的を外れた評価になっていたであろうか。
そんな新時代の象徴である彼や同じく新人で本塁打王を獲得したピート・アロンソのような生誕は統計では測れない、とも読めるのだ。

3,ピー・ウィー・リーズは本当にwarでHoFを得たのか

正直に言う。
私は先ほどの発言者に罠をかけた。

というのも私はピー・ウィー・リーズを守備と犠打の人として扱ったからだ。
彼の犠打数は157。メジャーでも少ないほうではない。むしろチームリーダーになった1946年からがぜん増えてくる。
彼は到底答えられないだろうと思った。それは彼の貢献はまさにチームリーダーであったが故、のところが非常に強かったからだ。
というよりも成績だけで見たらかなり川相昌弘や宮本慎也に近い。
彼はその成績よりも、強豪ブルックリン・ドジャースで強烈なキャプテンシーを働かせた「リーダー」としての評価が非常に高かったからこそのHoFなのだ。
さらに言えば、彼がリーダーであったからこそ、ジャッキー・ロビンソンがいやすいチームになった。彼が幼少期黒人差別に心を痛める少年であったからこそロビンソンを受け入れられた。それこそロビンソンとリーズを象徴する逸話とそれを模した銅像がそれを物語っている。


映画「42」でも象徴的にされたシーン

これを「黒人解放の象徴」としてメジャーリーグ、なんならドジャースはいまだに誇っているし、こういった多くの軌跡からドジャースは「ドジャーブルーの血が流れている選手はみんなドジャースファミリー」的な人種を問わない球団になっていったのだ。

これは統計学では表れない。
統計学では事実の一端を掘り起こすことはできても、すべてを負担できない。
真実は多くの情報から読み取っていくしかないのだ。

確かにwarという数字では90年代~00年代の遊撃手は価値が低くなるだろう。
この時代における二番遊撃手、と言われたら犠打と守備の人となることが大半だろう。彼ら以外にもそのような選手が多かった。
しかし、それを統計学的に数値が低い、で片づけてしまうと90年代野球の本質が見いだせなくなる。
90年代の巨人や00年代のヤクルトを知れば知るほど彼らがいなくていい、なんて言葉は出ないだろう。彼らの数値的評価が低かったのなら「誰を代わりに置けばよかったのか」を示さなければ卑怯な論法だ。
それこそこのような稚拙な論を張ることは極論で言ってしまえば10本も本塁打を打てなかったタイ・カッブやその時代は低レベルとあざ笑うかのような行為になってしまう。

なぜそういう経緯をたどったのか。
なぜこのような成績に至ったのか。
ここをきちんと追求しなければ統計学で選手を語るなどカロリー的にはセーフとお菓子しか食べずに太ってしまったメタボリック体質の人と同じだ。カロリーだけではない、運動量からタンパク質の摂取量、普段のストレスや睡眠時間など経緯をたどって答えを見出さなければお菓子をご飯に変えたところで一時的に解決してももとに戻るのは遠くない。
そんな単純なことを「とうけいがく」の文字に踊らされるのは正直に言って木を見て森を見ない行為そのものだ。

さらに言えばピー・ウィー・リーズはブルックリン・ドジャース絶頂期の選手であることも加味したい。彼がいようがいまいがドジャースが強ければ相対的にwarという数字は上がっていく。チームの勝率を選手に再分配するような考え方なのだから。
もし彼が万年最下位を争うセントルイス・ブラウンズの選手であったらこんなことにはならなかったであろう。彼の指摘したwar的に数字の低いダメ選手の烙印をこれ見よがしに押してくるだろう。

そういう罠をしかけたのだ。
正直こんなもの数値や統計を扱う上では基本中の基本であることができていれば暴論に走らない、それこそ様々な点をきちんと精査すればきちんとその結果にたどり着く選手をきちんと出したのだ。

彼からは返答がなかった。所詮その程度の知識しかもっていなかったという事だろう。面倒と思って途中で切っただけと思うけど。ちょっと知ってたら、なんなら映画を見ていたらすぐ返事できそうな、そういう面も含めて基礎知識がないんですって話なんだけどね。
そもそも1984年のwarどころかセイバーメトリクスもなかったころにHoFに入った選手だ。数字だけでHoFに入ったと考える方がおかしい。だからこそ様々なファクターを調べねばならないという基本的なことを見落としている。

そういう意味ではビル・ジェームスの批判は正しいというか、今の統計学で何もかも評価してしまうねじ曲がっていく考えに警鐘を鳴らすのは理解もできる。ただ彼自身が蒔いた種でもあるのでしっかり自分で摘み取っていただきたいものであるが。

私は近年の野球選手をなんでもかんでも数字で評価する姿勢を心よく思っていない。
野球の成績というのは選手一人一人の個性の現れでしかなく、その個性を発揮させるためにはチームや選手個人の人格形成が肝要である、という結論はそれこそベン・ライターのアストロボールが記したところではなかったか。
かのお股ニキが序文を書いていたはずが誰も読んでいないのであろうか。セイバーメトリクスには落とし穴があるはずなのだが。

そういった多くのファクターを無視して数字で語るだけの現状というのは間違いなく衰退の一途をたどる。
それこそフレームと判定の強弱ばかりが叫ばれ、勝つことだけが正しいという姿勢で初心者を全く引き入れなかった90年代の格ゲーブームのように。
現在格ゲーが伸び始めているのはゲームのやりやすい環境だけではない。トップ勢が「格ゲーがどうやったら今後も生き残れるか」を必死に模索していることも大きな要素なのだ。だからトップリーダーでも初心者に対し丁寧になりつつあるのが現在の格ゲーだ。

この姿は今の野球と非常に重なる。
目の前の数字ばかり気にして、本当に必要なものを忘れた先に未来はない。

ピー・ウィー・リーズは死して成績という姿でしか残っておらずともそれをまさに教えてくれる教材でもあるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?