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ビル・マドロック哀歌

9打数2安打1本塁打2三振。
メジャーで2008本、163本塁打も打った選手の結果にしては寂しいものだったのかもしれない。
元来彼はホームランバッターとはいいがたい。1982年、ピッツバーグ・パイレーツで放った19本がシーズンキャリアハイだ。ちょうどショートには・ベラの息子、デール・ベラが守っていた。控えには42歳になったウィリー・スタージェルが構えている。ピッツバーグが誇るファミリーの時代が終わりを迎えていたころに彼はキャリアハイを出した。
首位打者こそモントリオールに移籍していたアル・オリバーに奪われてしまったが堂々二位の.319。誇れる数字であった。
そんな輝かしい記憶を持つ男の数字としては、なんとも物悲しい。

1988年10月18日、近鉄とロッテが対戦したダブルヘッダーでのビル・マドロックの成績だ。
二試合目の二回裏に日本交通浦和から近鉄入りした高柳出己からホームランを放っている。誰にも語られない本塁打だ。
川崎球場に落書きされたマドロック立入禁止の文字を見て彼はどう思っただろうか。
ルーキー・オブ・ジ・イヤー三位、新人王のベイク・マクブライド、二位のグレッグ・グロス二人の安打数に倍近く差をつけ、オールスターは実に3回出場。幾度となくMVP候補に挙がった彼の日本での成績、いや、扱いそのものはひどいものであった。

10.19から35年たった今だからこそ、ビル・マドロックという選手を考えてみてもいいのではないか、と思った。

1,助っ人外国人でもとびぬけていた男

意外でもないのだが、1988年のチーム本塁打ではマドロックが一位の19本塁打を放っている。
この年の層は強打という意味では薄い。長打を狙える選手がほとんどいない。愛甲猛や高沢秀昭といった打者もいるが彼らは元来長距離打者ではない。事実高沢はこの年.327で首位打者を獲得している。
古川慎一や横田真之など期待できる選手がいなかったわけではないが、やはり通年打ち続けられるほどの力があるわけではなく小粒。
頼みの綱であったレロン・リーはもうおらず打線を担える打者がとにかくいない。
そんな中での入団であった。

1988年も多くの助っ人外国人が来ており、その中でもメジャーで活躍した選手は少なくない。
例えば南海に入ったトニー・バナザードはホワイトソックスやインディアンズ(現ガーディアンズ)でスタメンを誇っていたし、日本ハムに入ったマイク・イースラーもレッドソックスなどで27本打つような選手が入っていた。近鉄に入ったベン・オグリビーに至ってはミルウォーキー時代に1シーズンで41本も放っており、シルバースラッガー賞も獲得している。
それ以外にも西武が育てたといってもいいバン・バークレオといった存在もあり、各々がこれぞという選手を取り揃えていた時期でもあった。

その中でもビル・マドロックはとびぬけている。
2008本という安打数、四度の首位打者。MLB通算打率は脅威の.305。1970年代猛威を振るったファミリー時代が崩壊する1980年代のピッツバーグを象徴する選手として彼の名が上がるほどの選手であった。
この年の外国人の中でトップクラスに秀でた成績を残してきた選手であっただろう。

しかし1987年、LADに契約しているもののスタメンを奪うことなく21試合の出場に終わっている。もう選手として終わりが見えてきた時期でもあった。
ある意味終わりかけの選手でもあったのだ。

そんな彼が次の働き場所に選んだのが日本という極東の地であった。

2,ホーナー効果の影

彼は日本に来てから相当ビッグマウスをしている。
川崎球場では50本打てる、だの、四割を打てる、だの。
このビックマウスはどこから来たのか、というのは思うところがある。
恐らく前年のボブ・ホーナーの活躍をかなり意識していたのではないかと思われる。

ボブ・ホーナーはMLB史を紐解けばよい選手であったとはいえるが決して名選手とまでは言えない。それは通算成績が.277(3777-1047)、218本、685打点という数字が物語っている。
成績そのもので言えばベン・オグリビーどころかエンゼルスを支えたダグ・デシンセイ(88年当時ヤクルト)なども下回る。ホーナー自身翌年の1989年にはセントルイス・カージナルスでまともに活躍できずに引退しているから多くの成績を受賞してきた彼にはその世界は甘く映ったところはあるのだろう。
考えてみればサンディエゴなどでうだつの上がらないファーストであった選手が大阪の縦じま球団で三冠王を取っていたり、ほとんどメジャーに上がったこともないマイナーの選手が同じく大阪の球団で三冠王を取っていたわけである。
そしてMLBを代表するような選手というわけでもない、いわば一流と言われても超一流とは程遠いホーナーが赤鬼旋風として沸き立ったわけである。

大人がリトルリーグを相手にする、は言い過ぎにしたってメジャーリーガーが大学生に勝負を挑むようなものである。年老いたとはいえアマチュアレベルのリーグと思えばやれてしまうだろう、という思いはどこかにあっただろう。

「俺たちメジャーリーガーが本気を出せばジャップの野球なんて」

この驕りはどこかにあったはずだ。

それに輪をかけるようにロッテは好待遇だ。
川崎球場に専用VIPルームを作ってくれてやりたい放題。
ホーナー効果に沸く日本のマスメディアもホーナー以上の男が来たと大騒ぎ。
いつの間にか誰からも神様同然に扱われていた。

そのような状態で、人間は謙虚さや真摯さを保てるわけがない。
リップサービス程度のことがどんどん尾ひれをつけてしまう。ビッグマウスがリップサービスか本音か。シーズン前にはもうわからないところまで来てしまっている。

それがシーズンにひずみを生んでしまっている。

3,上がらぬ成績。置いていかれる名選手

4月30日の阪急戦。
やっとマドロックに2号本塁打が出た時だ。
ブレーブスで三番を打つ自分より三歳年下のマイナーリーガーはすでに.290、4本の成績を残していた。彼のMLB成績は30本安打もない。
そんな彼が不調と言われていた。メジャーでははるかに劣る成績の男が。年齢だってそんなに離れているわけでもない。

本来ならば彼なんか横切っていなければならない数字だ。
近鉄のオグリビーと本塁打王争いをしていてもおかしくない。
それがマイナーリーガーにすら負けている。ただでさえオープン戦で打てていないのにシーズンになっても上がってくる気配がない。

五月も終わればオグリビーに二倍近い本塁打差をつけられている。
それどころかオグリビーのいるチームの六番打者にすら負けている。打率も.250付近を行ったり来たりしている。成績だけで言えば自分の後ろを打っているFURUKAWAとかいうやつのほうがよっぽど打てている。
いつしかTAKAZAWAやAIKOUに打率は抜かれ、本塁打も同じくらいになっている。オグリビーは.322も打っているのに。

7月も終わろうころには自分より年上の太った、到底野球選手と思えない中年が自分の3倍近い本塁打を打っている。バナザードを押しのけてクリーンアップに座って、だ。
打率も本塁打AIKOUに完全に抜かれている。二割五分程度の悲しいお荷物になっていた。

そして9月1日。
遂に四番から外される。四番に座ったのはTAKAZAWA。AIKOUがいた六番に送られ、しまいには代走を出されている。
ここで完全に見限られたのだ。.244、11本塁打。
そこには2000本安打を打ったMLBを代表する打者の一人としての面影は残っていない。チームにも溶け込めず結果も残せない、ダメ助っ人外国人がそこにいた。

4,最後に咲かせたマッド・ドッグの徒花

10.19のマドロックは.257、16本という、助っ人外国人として高額をかけたにしてはなんとも微妙な選手となってしまっていた。
チームも最下位に転落。弱いロッテを拭い去れなかった。

ただ、六番に落とされてから少し変化があるようにも見受けられる。
わずかながらではあるが打率が上向いてきており、ここに来るまで5本と、期待値よりは少なめであるが本塁打も打てるようになってきていた。
もうマドロックは「メジャーリーガー様」ではなくなっていたことを実感していたのかもしれない。大活躍こそできないもののなんとか食らいついていった結果が少しだけ出ているようにも見える。
そんな彼をどう評価したのかは測りかねるが、ダブルヘッダーでは五番を任されている。

そんな彼が二試合目の。二回裏に高柳から本塁打を打っている。
17号本塁打。
たった一打点にしかならない本塁打が、この試合をロッテの敗北から引き分けに結び付けた。4対3の可能性がありながらも、ボブ・ホーナー以上の助っ人外国人としてやってきた彼が輝いたのであった。
それはシーズンを通してみたら物足りないものだったかもしれない。線香花火のような小さな灯ゆえにがっかりしたかもしれない。
しかし、最後の最後でメジャーリーガーとしての姿を見せつけた。

この後マドロックは四番に帰り咲いている。
たった数試合ではあったし、最終試合は山本に奪われているのだが巡り巡って四番に戻っているのだ。
NPBでの成績は.263(437-115)、19本、61打点。
お世辞にもいい数字とは言えないだろう。バブルマネーがあったとはいえその結果が相当マイナスであったことが容易にとれる。

「ボブ・ホーナーは“地球の裏側にもうひとつの違う野球があった”と言ったが、そんなことはない。日本の野球だって、十分立派にやっていると思う」

彼は退団時にこのような言葉を残して帰国している。
それは「ホーナーなんかが活躍できるリーグ」と思い込んだ、神様と奉られてやってきた男ではなく、メジャーリーガーとして元来の姿を見せた瞬間であっただろう。
謙虚さが足りなかった、というのは簡単だ。
だが、成績から彼の傲慢さや苦しみ、そしてそこからどういう考えに至ったのかが、そっとではあるが読み取ることができる。

もし彼が「ジャップのリーグと俺は合わなかった」「格下の野球のくせに」という思考のままシーズンを終えていたらもっと違った成績になっていただろうし、10.19の二試合目は本当に引き分けられていたか。もっと違った結末になっていた可能性も十分にある。でなければ.250前後を行き来していた男が急にシーズンも終わりごろになった時期に一分近く打率を上げるのは難しい。

もしホーナーを意識していなかったら。
もしメジャーリーガーを鼻にかけなければ。
もしチームメイトと一丸となって野球ができていれば。

彼は大活躍こそしなくとも「マドロック立入禁止」の文字を掲げられなかったかもしれない。当時のファンが昭和ゆえのモラリティであったとしても、もう少し違った捉えられ方をされていたはずだ。モラルが決して高くなくても読み取る力すらないとは思えない。

だからこそ、10.19のマドロックの本塁打はメジャーリーガーと謳われた男が最後に咲かせた徒花のような気がしてならないのだ。

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